小原克博氏が提唱した「不在者の倫理」は、過去や未来の不在者を記憶・想像することが、現在の存在者である我々に具体的な倫理的責任を喚起するという視座に基づいている。この「不在者」は、死者や未来世代のみならず、高度情報化社会において都合よく取捨選択され、意識の枠外へと追いやられた「現在を共に生きる他者」をも内包する重層的な概念である。つまり、不在者とは時の推移によって自然発生するだけでなく、我々の無関心や「世間」という同質的な枠組みによって、人為的に創出される存在でもあると言える。
特に公共圏が、異質な他者を自我の延長へと回収してしまう「世間」として機能する現状においては、同じ時代を生きる他者がその固有性を奪われ、不可視の存在へと変貌させられている。こうした「現在における不在者」の創出は、公共圏における対話の不全を露呈させるものであり、死者を都合よく「加工」する生者の奢りや、いまだ諸課題への発言権を持たない「未来における不在者」への収奪や無関心とも構造的に連動している。
直接的な対話が叶わない不在者の声を聴く営みには、つねに解釈者の恣意性というアポリアがつきまとう。しかし、だからこそ独善的な同質化を排し、不在者を「臨在する不在者」として呼び戻すための「対話的知恵」と「聴く倫理」の重要性が増している。
2026年度は昨年度に引き続き、こうした課題への関心を継続しつつ、特に「未来における不在者」と「現在を共に生きる不在者」という二つの軸について、より踏み込んだ考察を行いたい。各専門領域からこの重層的な「不在者」に対する鋭い洞察が提示され、実りある議論が展開されることを期待する。
*小原克博「不在者の倫理―科学技術に対する宗教倫理的批判のために―」(『宗教と倫理』第16号、2016年)
26年度第1回研究会では、小田淑子氏が「日本的宗教における神仏・死者・先祖」と題して発表した。本発表は、2026年3月7日に開催された宗教倫理学会の公開講演会「技術史的観点からみたAIの実情と神職の事情」で、講師の才脇直樹氏が紹介された「何世紀も村落の庄屋と神職を務めてきた」という自身の「家の歴史」を聞いたことに触発され、日本的宗教の中で受容されている「神仏習合」の持つ意味を新たな視点から考察しようとする試みである。
小田氏の発表では、冒頭で、まず今年度の研究プロジェクト・テーマである「不在者の倫理」という視点を媒介として、死者を仏や神と呼ぶ日本人の宗教性の解明を試みたいという、本発表の主旨を簡単に述べて本題に入った。
現代では神棚・仏壇のない家が多く、墓仕舞いも増加しているが、まだ多くの日本人が無宗教と言いつつ墓参に行き、仏壇の仏を先祖や身近な死者と認識している。ここに日本人の代表的な宗教がある。仏教教義に先祖崇拝がない以上、その宗教は神道と仏教の共存に由来すると考えられる。「神道は宗教ではない」と言う人が多いのは事実だが、神道を学問的に宗教と認識し説明することが重要である。
一般に神仏習合と言われるが、神道と仏教は異質な宗教である。神道は儒教や先住民の宗教と同様に古層宗教(創唱者不在の民族宗教)で、共同体の秩序維持(五穀豊穣、無病息災、家内安全、子孫繁栄がその典型)を季節儀礼により祈願する。個人救済を説かず、通過儀礼を含め、儀礼祭祀を重視する。それに対して、仏教はキリスト教と同様に現世否定的な教義に基づき個人の救済を説き、教会や教団を創設し、神学や教学・宗学を重視する。仏教は一神教と異なり、土着の古層宗教を排除せず共存した。一神教ではありえないが、仏教徒は古層宗教の儀礼を行い、異なる宗教に属すことに矛盾を感じない。儒教では皇帝が天壇で天帝に祈願する新年儀礼を行い、家長が死者儀礼を行うが、天皇は儒教の新年儀礼を行わず、また神道が死を穢れとして忌むため、日本では仏教が死者儀礼を担った。日本は律令制や朱子学など儒教思想を受容したが、儒教儀礼を受容しなかった。この点に、儒教が深く浸透した中国や朝鮮の宗教伝統と、死者儀礼を担った仏教が神道の宗教共同体に深く根付いた日本の宗教伝統との相違の一因があると推測される。
日本仏教は中国から主要経典も教義も異なる新しい宗派がもちこまれて定着し、それぞれ教団を確立したが、キリスト教内部の教会対立とは異なり、新旧の宗派が神道の宗教共同体に根差して併存し、どの宗派の信者も自由に通婚した。特に江戸時代の寺請制度以後、仏教は家の宗教となり、先祖崇拝と結びついたため、教義や読誦する経典が異なっても、どの宗派もほぼ共通の死者儀礼を行ってきた。
仏教の仏は釈尊以外に、多くの如来と菩薩が存在する。神道の神々はさらに多様で、神話に登場する神々以外に八幡、恵比寿、稲荷、またご神体である山や岩、英雄や偉人、戦死者を神として祀る。「南無阿弥陀仏」の念仏では固有名で仏に祈るが、日本人は多くの場合に神や仏、神仏という一般名称で呼びかけ祈願する。どの神や仏でもいいと思うからでもあるが、それ以上に、固有名ではない神仏への祈願には各自の先祖・身近な死者への追悼と祈願が重なっている。仏教教義では成仏は悟りか、阿弥陀仏や法華経などの信仰による救いであり、単に誰もが死後に行く死後世界を意味しない。神道は死を忌むが、死者は祖先神となって子孫を加護・守護するという素朴な信仰もあった。「死んで神になる」という素朴な信仰が、仏教の信仰による成仏の教えを死後成仏に変容して広めた背景にあるように思える。
家制度は戦後の法制度で否定されたが、家意識と家の宗教は相互補完、補強するように存続してきたが、葬儀の簡素化と墓仕舞いに伴い、希薄になりつつある。だが、日本人が死者を強く追慕追悼することは今も続いている。日本はこの数十年に何度もの大震災と台風などの大規模災害を経験し、多数の死者と行方不明者を出した。そうした若い死者は先祖ではないが、非業の死を遂げた人々であり、遺族にとって時に深い後悔と悲嘆の混じった追慕、追悼と供養の対象である。こうした民衆の素朴な宗教性は、当事者である民衆によって理論化どころか言語化さえされない。今後の日本の宗教のあり方を論じる際に、こうした宗教性を考察することが大事だと思われる。
小田氏の発表を受けて、井上氏は日本の供養を、死者を「切り離す」過程と社会を「再編する」営みとして捉え、長い時間をかけて死者が祖先へと位置づけられていく日本独自の枠組みであると説明した。さらに、平安期の貴族の葬送習慣から江戸時代の寺請制度に至る流れを踏まえ、墓がやがて「家の象徴」へと意味づけられていく変遷を示した。そのうえで現代においては、死者を慰める鎮魂としての供養にとどまらず、生きる側が自己の在り方を問い直す「聞法」やグリーフケアの要素も含まれていると指摘し、不在の死者との対話を可能にする倫理的空間として再構成する必要性を提起した。加えて、日本の先祖供養が古層宗教に由来するという小田氏の見方に対しては、死生観そのものの歴史的変化にも目を向けるべきだと論じ、宗教倫理において重視されるべきなのは「解答」よりもむしろ「問いを投げかけること」ではないかと述べた。
井上氏のコメントに続いて、参加者を交えた全体討議では、小田氏の発表と井上氏のコメントを受け、過去に存在した「不在者」を、現在存在している我々が、宗教倫理の視点から論じる際の意義と同時にその困難さについても議論された。特に、日本社会の中で、不在者としての「死者」について考える際には、近代以前(古代・中世・近世)の死生観と近代以降のそれとの共通性と差異、さらに現在進行しつつある、現代社会における「死生観」の変遷のプロセスを踏まえて「不在者の倫理」について検討することは非常に困難なことである。しかしそれゆえにこの課題について問いかけ続けていくことの意義があるということも確認された。
2026年度第2回研究会では、室寺義仁氏が「「死の質」(Quality of Death; QOD)という考え方について」と題して発表した。現代の医療の現場では、「生活の質」(QOL: Quality of Life)という考え方に加えて、人の尊厳を守るという立場から、最期を迎えつつある目の前の人にとっての「死の質」(QOD)を考えることへの関心が高まりつつある。室寺氏は、この「死の質」の考え方に内在する倫理的課題に、仏教研究者の視点から検討が加えられた。
室寺義仁氏はまず、「『死の質』(Quality of Death; QOD)という考え方について」と題して、発表者の室寺義仁氏は、「死の質」を考えることには、少なくとも次のような3つの様相があると思われるとする。
(1) まず〔生前〕、最後の時空間を迎えている人を目の前にして、目の前の人の<生きることの質>が、そのまま「死の質」となるという意味での<生きることの質>と向き合わなければならないときの、自他が共に今に抱える「死の質」についての様態。この場合、今に生きる社会の人たちの間で交わされた約束事に対して責任を負うべき、「不在者となる人」への倫理的態度を考えることになろう。
(2) 次に〔死後、あるいは、生前死後の流れを通じて〕、残された人にとって、もはや目の前に不在の存在であるにもかかわらず、先に逝った人の「死の質」について、残された他者が抱き続ける「死の質」の様態。この場合、「不在者となった人」への残された存在者側からの一方的な倫理的態度を考えることになろう。
(3) そして、第3の様相は、社会的/個別的な間柄の人と人との関係性を離れた、絶対孤独な唯一無二の個体死について考えることである。この場合、倫理的な思考の枠組みを離れることになる。今回の発表では、生体が持つ「意思」の大切さ、表現を変えれば、「本人の意思」の尊重・確認という現代医療の大原則にも相通じる仏教的な思惟の一つ、と私が考えるブッダの言葉の伝承の中から、「身体は泡沫の如し」との経句を伝える「泡沫経」の一節を紹介した。
ブッダの言葉の伝承を検証すると、死(death, dying)を継時的過程で語るときには、感覚器官による知覚・識別判断、並びに、統覚・思考判断から成る「諸識」と共に、体温・寿命の身体帰属要素が身体を放棄する。そして、この放り投げ捨てられた身体=骸(dead body)に「意思」は無いとの言葉が伝わる。今、私たちはこの日常において、生きている人には思い願いの「意思」が有ると分かっている。この様に言ってしまえば、自明のことであろうが、しかしながら、この「意思」の有る無しという観方は、現代の臨床医療の現場でも重要視されている「本人の意思」の尊重、そして、可能な限りの確認という考え方と相通じるであろう。
以上の様な室寺氏の研究発表を受けて、続いて澤井義次氏から問いを提示するかたちでコメントがあった。まず、今回の発表で、室寺氏は「生の質」ではなく「死の質」を強調したが、その点に触れて、生命には自己組織化と自己解体化の両面が内包されている。医療現場では、どの程度、「生と死の連続性」が認識されているのかについて問いが提示された。さらに、室寺氏のいう「個体死」は「絶対孤独な唯一無二」であるが、それは社会的および個別的な間柄としての倫理とどのような関わりをもつのかについても確認された。
これらの問いに対して室寺氏は、生死についての連続性については、現在の臨床医学の現場では、その様な意味での生死についての認識などを離れて医療行為が行われていると想うと回答された。また宗教倫理的には「死者の尊厳」は人間の尊厳に内包されるものと考えられているが、現代医療においては、原則として個体死において医療行為は完結するのであり、あくまで死の直前までが医療とみなされている現状では、死の持つ意味・価値についてはあまり正当に評価されていないのが現状であることも指摘された。
現代医学においては個体死が必ずしも「医療の敗北」ではなく、尊厳死や臓器移植などに関連する問題を含めて、生体が持つ「意思」の大切さとして、死の持つ意味を考えるようにはなってはきている。しかし「死の質」の検討については、個体死の医療行為は完結するという前提の上での考察にとどまっている。この点については、全体の討議の中でも、宗教者によって語られる「生と死の共存・生と死の連続」という考え方が「宗教倫理」の範疇に含まれるべきかどうかについても検討されるべきであり、そのような意味でも「不在者の倫理」についての議論がさらに深まることへの期待も示された。
生成AIの能力は日々進化し、「考えるとは何か」「創造するとは何か」という、人間の根源に関わる問いを私たちに突きつけている。かつては哲学や神学の書物の中で語られてきたテーマが、今やスマホの画面の中で現実の問題として立ち現れているが、今般の米国とイスラエルのイラン攻撃の際に、攻撃目標の選択・評価をAIという不在者が担ったという事実は看過することはできない。
私は2019年に京都で開催されたG20諸宗教フォーラムで「AIの脅威と責任」というテーマを設定したのをはじめ、2024年には教皇庁生命アカデミーやWCRPと協力して「平和のためのAI倫理国際フォーラム」で神道を代表して発表するなど、多くの意見表明を行ってきたが、本学会では、神とアルゴリズム。エデンの園とシンギュラリティ。身体なき知性の罪。ハルシネーションと原罪。人工知能という語の語義矛盾。自律する機械は罪を犯せるか等をキーワードに「知の責任」について私見を述べたい。
本発表では、小原克博氏が取り上げた「犠牲のシステム」を巡る諸論に注目し、パレスチナ人の自発的殉教を犠牲のシステムと捉えた上で、システムを成立させる殉教者本人たちの思想について、システムの内側と外側の「不在者」たちに着目しながら考察する。
イスラエルの占領に抵抗するパレスチナの人々には、死を覚悟で敵を攻撃する自己犠牲の歴史が存在する。イスラエル軍兵士やユダヤ人入植者への切り付け、車での体当たりといった襲撃は、ヨルダン川西岸地区とエルサレムを中心に今日まで続いている。現場で射殺されることを覚悟して戦いに臨む襲撃者は、かつての自爆攻撃者と同様、イスラームのターミノロジーを元に「自発的殉教者」と呼ばれる。
本発表ではパレスチナ人研究者らの議論を踏まえ、襲撃者は「神」や蹂躙される「母国」、過去と未来の「殉教者」といったシステム内に臨在する「不在者」への応答として殉教を決意するとの解釈を示す。また、システム外へ締め出される「不在者」として、自発的殉教のイスラーム的正当性を問い直そうとする遺族の語りを取り上げる。