研究プロジェクト

研究プロジェクト

2023年度

宗教の「自由」を再考する――現代日本を中心に
Reconsidering Religious “Liberty/Freedom” : Focusing on Contemporary Japan

 本学会では、過去2年間にわたって、「宗教から「公共圏」と「世間」を問い直す」とのテーマのもとに研究プロジェクトを展開し、さまざまな議論が積み重ねられてきた。その中で改めて浮き彫りになった論点のひとつが、日本において伝統的に人間関係を規定してきた「世間」が、近代になって欧米から「市民社会」や「公共圏」などの観念が紹介された後も、現代まで引き続き個人と集団の関係に大きく影響を及ぼしているという事実であった。たとえば阿部謹也は、「世間」が人々に生活の指針を与え、集団で暮らす場合の制約を課すものであるという点から、それを日本の「公共性」と見なしている。

 その結果、日本では、欧米のような個人主義が育っていないとされるが、そのことと現代日本人の多くが「無宗教」を自認していることは無関係ではなかろう。すなわち、その場合の「宗教」とは「個人の宗教的信仰」を指すが、実際はほとんどの日本人が初詣や盆など何らかの宗教行事に参加しているのであり、このことについて澤井義次は、日本では「個人の宗教的信仰」と「生活慣習としての宗教」が有機的に重なり合う多元的・重層的な意味構造を構成していると説明する。問題は、この後者の「宗教」によって(たとえば「同調圧力」という形で)前者の「信仰の自由」がしばしば抑圧されているという点である。

 一方、近代ヨーロッパ社会で確立した「政教分離」の原則は、世俗主義の流れの中で「公共性」(公共圏)と「自由」(親密圏)を対立するものとして位置づけてきたが、「私事としての宗教」を超え出る「公共宗教」を巡る議論は、このような公/私という構図が一面的にすぎないことを明らかにした。こんにちの欧米社会において「政教分離」が問い直される中で、「宗教的自由」が改めて議論の的となっている。会員の積極的な発表と議論への参加を期待したい。

夏季一泊研修会

日時
2023年8月21日(月)14:00 ~ 22日(火)11:00
場所
関西大学セミナーハウス彦根荘およびオンライン(Zoom)

 宗教倫理学会の2023年度夏季一泊研修会は、今年(2023年)8月21日(月)~22日(火)、関西大学セミナーハウス彦根荘(オンライン併用)で開催された。研修会では、金子昭氏(天理大学おやさと研究所・教授)と中西尋子氏(大阪公立大学大学院文学研究科都市文化研究センター・研究員)が、それぞれ研究発表をおこない、その後、活発な全体講義がおこなわれた。研修会のプログラムは、以下のとおりであった。

 

821日(月)

 14:2014:30 研修会オリエンテーションならびに趣旨説明

 14:30~18:00 研究発表と討論1<オンライン併用>

 (1)金子昭氏(天理大学おやさと研究所・教授)
  「宗教の解放力再考―シュヴァイツァーの倫理的神秘主義を手がかりに―」
 (2)中西尋子氏(大阪公立大学大学院文学研究科都市文化研究センター・研究員)
  「『信教の自由』と統一教会の活動」

822日(火)

 9:0011:00 討論2+総括<オンライン併用>

 

 

研究発表⑴

「宗教の解放力再考―シュヴァイツァーの倫理的神秘主義を手がかりに―」

金子昭氏(天理大学おやさと研究所・教授)

 金子氏はまず、現代日本の宗教界で問われている問題の一つに、「宗教2世」問題があると述べて、宗教が本来、解放力をもっていることを強調した。金子氏によれば、親世代にとって宗教“への”自由である宗教の自由が、子世代にとっては宗教“からの”自由となって現れている。どの宗教にも、人の心魂を解放する側面と、逆にこれを制約する側面とがあることを指摘した。

 また、同一の宗教が1世と2世のあいだで、どうして異なる現れ方をするのかという点について、金子氏は次のように述べた。宗教とは本来、人間に限りない解放力を与えてくれるものである。それは宗教がベルクソンの言う「動的宗教」として現れ、個人の心魂を解放させるからである。ところが、信仰による救済は信仰的共同体の中に設定され、この共同体の維持が図られる。それは宗教がベルクソンの言う「静的宗教」として、個人の心魂に閉塞感を与えるためである。ただし、宗教2世においても、宗教の解放力は作用するはずであると金子氏は述べた。現代日本の諸宗教が抱える閉塞感の一端は、「動的宗教」よりも「静的宗教」の側面が顕著になり、一種の自閉的共同体のようになっている側面があるからであろうと金子氏は指摘した。

 さらに金子氏は、「宗教2世」問題(「カルト2世」問題とは異なる)の宗教哲学的な試みとして、シュヴァツァーの倫理的神秘主義を援用した。シュヴァイツァーの倫理的神秘主義は、自らの内に生きんとする意志を体験し、この意志を、行為をとおして無限なる生きんとする意志へと捧げるという、「生への畏敬」の世界観である。「世界から内面的に自由になり、世界へと自由に関わる」。つまり、宗教が有する解放力は、宗教自らにも及ぼされるべきものである。シュヴァイツァーはこの思想を、神学的には使徒パウロのキリスト神秘主義として、哲学的には生命への畏敬の倫理思想として表現した。こうしたものの見方に、金子氏は現代日本の宗教が自ら閉鎖性を突破し、真の宗教的「自由」を実現する有益なヒントを見出せると論じた。

 また金子氏によれば、世界へと自由に関わることは、生命に対する無限で主体的な責任を持って関わっていくことを意味する。このことはベルクソンの言葉を借りれば、人間をその所属する社会の円の中をめぐるだけの「閉じた魂」から、この円環を突破して人類全体、さらには動植物や自然全体にまで及ぶ「開いた魂」へと転換させるものである。世界から内面的に自由になることで世界へと自由に関わることは、普遍化可能な内容を持っている。さらに、自由の契機は宗教それ自身にもある。宗教から自由になることも、自由な宗教の本質の中に含まれる。それが宗教の解放力を示すものである。こうして宗教は宗教をも越境していくことができると論じた。

 さらに「宗教の残響」として、所属していた宗教の信念、態度、価値観、慣習などが、宗教から離脱した後も残り続けるという。それは宗教教団が自らの閉鎖性を示す間接的な証しでもあるという。宗教に対して内面的に自由になることで、宗教に自由な関わり方が可能になる。内面的な自由が本質的な問題であるので、実際に宗教から離脱すること・宗教に残ることは二次的な問題となる。宗教2世の存在は同時に、宗教の自由の問題を当該の宗教に突きつけて、その自己変革を迫るものでもあると指摘して、研究発表を終えた。

 また金子氏は、2日目の「討論2」の冒頭、補足説明として初日の「討論1」を受けて、「カルト2世」と「宗教2世」の問題は別個の問題として分けて捉えるべきであると述べた。さらに「宗教2世」問題は現れ方が3通りに分けられる(これらが重なる場合もある)と示唆した。すなわち、① 親からのお仕着せの宗教に自分が合わない「宗教2世」。宗教を自分に合うように仕立て直すとか、宗教を脱ぎ捨てるというように、宗教に対する主体的自由を示す。② 家業としての宗教の重荷に耐えられない「宗教2世」。末端寺院/教会を継ぐとか継がないというのが最も深刻な問題であるが、宗教共同体のあり方の自由を示す。③ 宗教そのものよりも親子関係に問題がある「宗教2世」。親によるスピリチュアルアビューズのために、家庭への介入も必要であり、親からの精神的自由を示す。

 最後に金子氏は、宗教が本来的に自ら有する解放力を発揮すれば、これらの問題に対応できるはずであると強調して、研究発表の補足説明を終えた。

 

 

研究発表⑵

「信教の自由と統一教会の活動」

中西尋子氏(大阪公立大学大学院文学研究科都市文化研究センター・研究員)

 中西氏は、長年にわたる統一教会とその活動に関する研究およびフィールドワークをふまえて、掘り下げた研究報告をおこなった。まず、統一教会(世界平和統一家庭連合、2015年に世界基督教統一神霊協会から改称)の概要を簡潔に述べたうえで、統一教会の活動として、正体を隠しての勧誘(信教の自由の侵害に当たる)、霊感商法(詐欺的商法に当たる)、合同結婚式(婚姻の自由の侵害に当たる)などの問題点を検討した。そのうえで、「信教の自由」に照らして統一教会の何が問題であるのかに焦点を当てながら、統一教会の特徴を指摘した。

 安倍元首相の銃撃事件後、日本における統一教会をめぐる諸問題が次々と明るみに出てきた。中西氏は、統一教会および信者にも、信教の自由は保障されなければならないが、統一教会自身も他者の信教の自由を侵害するようなことがあってはならない。ところが、そのようになっていないのが現状であると指摘した。中西氏によれば、布教時に宗教であることを隠すが、宗教団体であることを明らかにしない布教・勧誘は「信じない自由」および「宗教選択の自由」を侵害している。また具体的に「聖本」10冊献金訴訟とその内容を論じることで、それが信仰心にもとづく自発的な献金であったのかどうかをめぐって、その問題点を検討した。さらに運勢鑑定するとか、ボランティアサークルなどと称して勧誘して相手を誘い入れ、しばらくしてから正体を明かすなどの宗教活動の実態も明らかにした。

 さらに、中西氏は統一教会の2世には、「祝福2世」と「信仰2世」(ヤコブ)があると述べた。すなわち、「祝福2世」は合同結婚式で結婚した夫婦から生まれた子どもであり、「信仰2世」(ヤコブ)は、結婚後に統一教会に入信した親の子どもであるという。親は子ども(「祝福2世」あるいは「信仰2世」(ヤコブ))にはさまざまな制約を課す。2世指導の手引書をみると、女子に対しては化粧、ピアス、マニキュア、露出度の高い服は男子を刺激するため注意せよと教え、「基本的に中性のように振る舞うことを指導」する。それは統一教会が恋愛を否定しているためであることを強調した。

 信教の自由における「自由」については、中西氏によれば、①内面における信教の自由、②布教や儀式など宗教活動の自由、③宗教結社の自由という3点に分けられる。そのうえで、統一教会の活動について、②の布教に問題があると中西氏は具体例を挙げながら指摘した。宗教団体であることを隠して勧誘することによって、第三者の信教の自由を侵害している。さらに2世に対しては、統一教会の信仰を親が強要することによって、内面における信教の自由を侵害している。つまり、「信じない自由」および「宗教選択の自由」を侵害していることになるとして、統一教会の問題点を明らかにした。

 

 

全体討議

 こうした金子氏と中西氏の充実した内容の研究発表をふまえて、研究プロジェクト委員長の澤井義次氏の司会のもと、初日に「討論1」、および二日目に「討論2」がおこなわれた。討論のなかで、おもな論点となったのは、宗教における信教の自由、および信仰の継承のあり方であった。以下の内容は、全体討議の内容について、研究プロジェクト委員会が纏めたものである。

 まず、金子氏によって取り上げられた「宗教の解放力」がなにを意味するのかについて、問いが提示された。その問いに対して金子氏は、それは宗教による社会通念からの解放であると回答した。しかし、宗教による社会通念からの解放によって、さらに新たな束縛に取り込まれることになることが指摘されたが、それは宗教も共同体を形成するかぎり、そうした束縛はどうしても避けることができないとの意見が提示された。どの宗教も組織や教会を形成した場合、その教えが世代間継承されていく。ところが、キリスト教の無教会主義のようなあり方も見られるが、講などの任意の集団は消滅していくことも指摘された。 

 信仰の継承については、日本社会において、宗教者の信仰が親から子へと、いわば家業として継承されてきたと思われるとの指摘もあった。また宗教者は、宗教の違いを超えて、世間から先祖供養を求められるが、先祖供養をベースにした親族の重視はそれほど長い伝統をもっていないのでは、との意見が提示された。ともあれ、信仰が世代を超えて継承されるのは信仰共同体が存在するからであり、どの宗教にも、共同体が存在するので、信仰が世代間伝承されていくとの意見も提示された。とはいえ、統一教会がこれまで、正体を隠した活動によって信仰を伝承してきたことは、社会的に決して許されるものではないとの意見が提示された。

 金子氏は研究発表のなかで、ベルクソンの「動的宗教」と「静的宗教」の分類を用いて、宗教のあり方を説明したが、その点について、ベルクソンが言う「動的宗教」は、キリスト教の伝統では神秘主義のようなもので、それは「静的宗教」の信仰共同体のベースがあって、はじめて成立するのではないかとの問いが出された。その点について金子氏は、たとえば、天理教の災害救援ひのきしん隊を一例として取り上げ、こうした青年層を中心とした活動が可能になるのは、確かに天理教という信仰共同体が実際に存在するからだと述べた。またベルクソンが言う「動的宗教」と「静的宗教」の分類は、「動的宗教」から「静的宗教」への移行という二項対立的なものではなく、「静的宗教」の基盤があってはじめて「動的宗教」が存在するというように、その分類を重層構造的に捉えるほうが適切なのではないかとのコメントも示された。さらに「宗教2世」について、伝統的な宗教と統一教会の場合には、確かに「宗教2世」という同じ語ではあるが、その語の意味を識別する必要があるとの意見が提示された。また、宗教について考えるとき、それがマジョリティの宗教であるのか、それともマイノリティの宗教であるのかを区別する必要もあるとの意見が提示された。それは、新宗教がマイノリティの宗教であるので、社会では「静的宗教」になり切れない側面があるからだとの指摘もなされた。

 ところで宗教史的に見れば、イスラームは最初期の少数派から多数派へ展開していったが、ユダヤ教は常に少数派でありながら今日まで存続してきた。ユダヤ教は戒律によって、確固としたライフスタイルを継承してきた。ユダヤ教において、教えに沿ったライフスタイルが継承されてきたのは、宗教教育が家庭でおこなわれ、律法(トーラー)が世代を超えて継承されてきたからだ。律法は家庭において、親から子へと暗唱によって継承されてきた。ここで重要なポイントは、宗教体験そのものの直接の共有も継承も不可能である。そうであるからこそ、祈りやさまざまな儀礼が定形化されて継承されてきた。定形化された祈りや儀礼をとおして、それに参与する人々を源泉の宗教体験へいざなうことができるからだ。そうする以外に宗教体験を伝達する方法がないからである。どの宗教においても、子どもが聖典の内容を理解できなくても、家庭内で子どもが聖典の内容を覚えるように指導されてきた。そうしたことは信仰を次世代へ継承していくうえで大切なことである。また、信者のあいだに、教祖に直接会った人はいないとしても、2、3代前の信者による信仰の語りをとおして、信仰を深めることができる。このように信仰を継承するうえで、「語り」がもつ意義についても確認できる。以上のような意見も提示された。

 現代の欧米や中東では、異宗教間結婚(interreligious marriage)によって、親世代には問題がなくても、子ども世代の宗教的アイデンティが問題になっている。この問題も広いコンテクストで捉えると、「宗教2世」問題とも関わってくると思われる。統一教会に入会し、脱会した若者の声を聞くと、そこには親子の問題があるとの報告もなされた。親が子どもに真剣に向き合うことで、家庭内での信仰の継承が肝心であることが確認された。伝統的な宗教でも、「宗教2世」の問題が出てくるのは、親と子の関係をめぐる問題であると考えられる。かつては、社会がある意味で宗教的機能をもっていたが、現代社会では、家庭の役割がますます重要になっている。

 ともあれ、宗教の自由や信仰の継承に関する諸問題は、親と子の関係性が鍵になるが、その際、信仰を伝える側の努力が不可欠であることが確認された。以上のように、今回の研修会では、充実した内容の研究発表をふまえて、参加者のあいだで、ハイブリッド方式で活発な討議がおこなわれた。

第1回研究会

日時
2023年4月21日(金)18:00~20:00
場所
オンライン(Zoom)
講師
宮本要太郎(関西大学教授)
演題
宗教における自由
コメンテーター
那須英勝(龍谷大学教授)

 宮本氏はまず、昨今、宗教が公共圏(ないし世間)から厳しく問い直されているが、「信教の自由」をめぐって、日本国憲法では、(1)個人レベルでの信仰の自由、(2)慣習レベルでの宗教的行為の自由、(3)教団レベルでの宗教的結社の自由が保障されていることを確認した。ただ、「信教の自由」には限界があり、他者の権利・自由に影響を及ぼす場合、内在的制約を受ける。また「政教分離」の原則は国家の非宗教性・宗教的中立性にあるが、それにも限界があり、国家と宗教の関わりを一切排除することは実際、不可能であると述べた。たとえば、津地鎮祭訴訟では、「目的効果基準」が示され、一般人の「社会通念」に照らして判断するという指針が出された。この基準は今日でも用いられていると述べた。

 現在、「カルト」問題が生起しているが、紀藤正樹弁護士によれば、カルト宗教について、明確な定義はないが、過去に多くの社会的問題や事件を引き起こしたかどうかが大きな判断基準となるという。また宗教ジャーナリストの藤田庄市によれば、「精神の自由」を侵害する集団はカルトだという。宮本氏は全ての宗教に「カルト」化の危険性があり、社会における「宗教の自由」の問題は、宗教における「自由」の問題とパラレルをなしていると述べた。そのうえで、その問題が先鋭的に表出しているのが「宗教2世」問題であると論じた。「カルト化」を防ぐことと「宗教2世」問題を生み出さないことは表裏の関係にあり、信仰コミュニティを開いていくには、「エンパシー」に基づくナラティブが要求されるとも述べた。

 さらに宮本氏は、日本宗教を理解するために、「宗教」のダブルスタンダードを提案した。すなわち、「自然宗教」/「創唱宗教」(阿満利麿)、「慣習としての宗教」/「教団としての宗教」(新矢昌昭)、「生活慣習としての宗教」/「個人の宗教的信仰」(澤井義次)さらに「累積的伝統(cumulative tradition)」/「信仰(faith)」( W. C.スミス)である。また「宗教の自由」を検討するために、宗教の三元論的理解を提案した。それは「慣習/伝統としての宗教」(Religion as Custom/Tradition)〈宗教C〉、「信仰としての宗教」(Religion as Faith)〈宗教F〉、「教団としての宗教」(Religion as Organization/Order)〈宗教O〉である。これら宗教の三元論の融合/対立によって、宮本氏は現代日本の宗教現象を理解する試みを提示した。

 最後に宮本氏は、宗教が「ヌミノーゼの観念」に基づくかぎり「不条理」であるとのH・リードの言葉を援用しながら、この「不条理性」に「宗教的自由」の端緒がある。そこに意味の再分節化が自由になり、価値の転倒や創造が可能になると述べた。そうしたダイナミズムに「宗教的自由」の醍醐味があるし、そこに「宗教」や「自由」の意味も、新たな地平を獲得できると指摘し、興味深い内容の研究発表を終えた。

 

コメントと全体討議

 その後、研究プロジェクト委員長の澤井氏の司会のもと、コメントと全体討議がなされた。まず、コメンテーターの那須氏は、自らがアメリカ社会に約20年間住んでいた経験をふまえ、マイノリティの仏教に属していたこともあり、アメリカ社会において、日本社会と同じように、いろいろと同調圧力を感じたとの体験を述べた。また、カルトについては、伝統宗教内にもカルトが生起するが、そのカルトが伝統宗教の外へ出ると、コントロールが難しくなると述べた。また宮本氏が説く宗教の三元論的理解については、各宗教によってバランスは異なるが、その理解の仕方が先行研究に基づくのかと尋ねた。そのコメントに対して、宮本氏は先行研究に基づく理解の仕方ではなく、独自のものであると返答した。また宮本氏は、日本社会では宗教Cが強く、宗教Fが抑圧されるきらいがある。カトリック社会では、宗教Oが強いのに対して、プロテスタント社会では宗教Fが強く、他者の信仰には比較的に寛容であるが、プロテスタントの人々は教派がちがうと反発し合ったりする傾向にあると応答した。また「宗教2世」の問題は、宗教Cと宗教Oさらに宗教Fという三つの層で論じるほうが分かりやすいとも述べた。

 その後、全体討議に入った。まず、宗教をめぐる親子の関係性が議論された。ドイツ社会では、子どもが14歳までは宗教や教育に関して親に従い、15歳になると堅信礼を授かる伝統が紹介された。堅信礼とは、子どもが自覚的に信仰に生きることを確認し、教会の正会員になることを意味するが、ドイツの宗教学者R・オットーも15歳で堅信礼を授かっていることが紹介された。またイタリア社会では、その儀礼が結婚前におこなわれることも紹介された。また宗教と文化や社会的慣習の関わりについて、アメリカ社会のユダヤ人たちは、クリスマスのとき、社会的慣習としてプレゼントをするが、それには宗教的意味がないことを強調していることが紹介された。

 日本社会では、宗教を語ることが文化になっていないが、神道の宗教性を適切に表現する必要性があるとの意見が提示された。親鸞や道元の信仰は個人的であったが、それらが存続してきたことを考えると、仏教が神道あるいは社会的慣習と結びついて宗教Cになっている。教団の中核的な部分と周縁的な部分が共存していて、そこには先祖崇拝も入っている。そうした宗教現象を宗教学的に説明する必要があるとの意見も提示された。さらに宗教が文化として捉えられると、その宗教性が脱色されるきらいがある。そのことは宗教Cと連関している。ただ、宗教を宗教Cとして捉えると、ヌミノーゼを隠してしまうことになる。宗教Cと宗教Fはそれだけで成立するが、宗教Oは必ずしも独立して存続できないのではないか、また宗教Oが宗教Cと宗教Fをコントロールしようとすると、社会的問題が生起するのでは、との問いが提示された。その問いに対して宮本氏は、宗教Oはヌミノーゼに直接触れないようにオブラートに包んでいる。その制約を共有することで、共同体組織を維持していく。ところが、その真逆にあるのがスピリチュアリティだと述べた。場合によって宗教の四元論として論じることも可能だと応答した。

 さらにカトリック教会では、幼児虐待などが問題になっているが、それはカルトとは呼ばれていない。社会的に人々に受け入れられている伝統宗教は、カルトとはみなされない。現代日本社会では、宗教を社会科学的にとらえる傾向があるが、その対象はほとんどが新宗教である。伝統宗教が宗教ではなく文化として受け入れられていることは、宗教を理解するうえで大切なポイントであるとの意見も提示された。以上のように、研究発表をふまえて、充実した内容の全体討議がおこなわれた。

第2回研究会

日時
2023年5月19日(金)18:00~20:00
場所
オンライン
講師
芦名定道(関西学院大学教授)
演題
寛容論から人権思想へ、そして再び寛容論へ
コメンテーター
古荘匡義(龍谷大学准教授)

芦名氏の研究発表

 芦名氏はまず、人権思想は「近代」の思想的遺産であり、現代世界において広く共有されているが、現代の思想状況では、「近代」の徹底的な問い直しが求められているのと同様、人権思想(そして自由思想)も問いの中にあると述べた。こうした現代的問題状況において、芦名氏は歴史的考察(中世から近世・近代へ。寛容論から人権思想へ)をおこない、現代の人権思想の問題点をめぐって議論した。研究発表のなかで取り上げた問題点は、以下のとおりであった。

 

・キリスト教における寛容論とその限界、そして、近代の人権思想の形成。

・近代人権思想のアポリアとしての環境倫理における自然の生存権。あるいは動物倫理。

・人権思想を人間存在の関係性から再考。自由の前提としての被投性(ハイデガー)。

・現代の人権思想にとっての寛容論の意義(アーレント、ハーバーマスなど)。

 

 芦名氏によれば、人権は西欧の近代思想・近代社会を特徴づけるもので、近代市民社会とその秩序にとって前提的な価値である。そのことを確認したうえで、根本的な問い直しのために、人権概念のルーツと歴史的展開を辿った。さらに宗教的寛容は、異端や異教との対立が破局に至るのを回避する可能性をもっており、キリスト教史において重要な役割を果たしてきたと論じた。ちなみに、近代的な人権は、日本社会では十分に確立しないうちに、その限界が問題化していることにも言及した。

 さらに芦名氏は人権思想の意義と限界を、特に環境倫理の事例を挙げながら検討した。この問題はhumanismを「人間中心主義」と訳すときに明確になる。環境倫理の基本原理は「平等」であり、生命倫理(「自由」の原理)とは著しい対照をなすという。「自然の生存権」という問題提起は、生存権(基本的人権)を人間のみに限定してきた近代ヒューマニズムの人間中心主義に対する批判である。しかし、人間以外の自然物に対して権利を拡張しようとする問題提起は、近代社会の人格、主体性という点から権利(人権)を論じてきた近代の倫理学や法学の根本的改定を要求することになる。自然の範囲については、被造物全体、植物を含む生物や動物など、さまざまに設定可能である。自然の生存権という場合には、基本的には人間以外の生物(動物に焦点が合わされる場合と、植物も含まれる場合がある)が問題となると論じた。

 現代のキリスト教思想では、環境倫理=環境神学、あるいは動物倫理=動物神学がさまざまに議論されているが、芦名氏はそのポイントが人権概念の再構築および拡張にあると述べ、さらにモルトマン『希望の倫理』を援用しながら、「自然の権利」を論じた。人権はもはや人間の尊厳だけではなく、あらゆる被造物の尊厳に基づく時にのみ人間中心主義的で自然破壊的な性質から解放されるという。

 さらに、人権から自然の権利への「権利」の拡張がいかに可能になるのかについて、芦名氏は拡張の手がかりを責任論に求めることで、責任性によって成り立つ関係性を通して権利を拡張できるという。権利は関係性(しかも非対称的な関係)に基づくもので、関係概念として把握されねばならないと述べた。最後に、権利は近代的な人権ではなく、寛容の精神との結びつきを必要とすると論じて、興味深い内容の研究発表を終えた。

 

コメントと全体討議

 その後、研究プロジェクト委員長の澤井氏の司会のもと、コメントと全体討議がなされた。まず、コメンテーターの古荘氏は、芦名氏の研究発表の内容を自分なりに纏めた後、二つの問いを提示した。まず、芦名氏は「責任」から「寛容」を考えようとしたが、古荘氏はあらゆる人間が「責任」を持ち得る存在なのだろうかという問いを提示した。その問いに対して芦名氏は、人権を拡張する場合、「責任」の概念が一つの手がかりとなると述べたうえで、「責任」と「寛容」との結びつきが、今後の課題になるだろうと応答した。その場合、「寛容」は「共感」と言い換えてもよいと付言した。古荘氏の第二の問いは、新たな寛容論では、自由をいかに考えるとよいのかというものであった。その問いに対して芦名氏は、市民社会において、平和とか人権を守るという価値観を共有するなかで自由を考えると、何でも自由にできるわけではないと応答した。

 その後、全体討議に入り、次のようなコメントや意見が提示された。まず、ヴォルテールの寛容論では、自分にしてほしくないものは他者にもしてはいけないことの重要性が強調される。一方、キリスト教では、他者にしてほしいことは自分もしなさいという積極的な黄金律が説かれるが、欧米の人権思想は、こうしたキリスト教の考え方にもとづいていると思われる。それは正義の倫理にもとづくが、ヴォルテールの寛容論は、いわばケアの倫理にもとづいている。正義の倫理とケアの倫理にもとづく寛容論のバランスが大切であり、ヴォルテールの寛容論が人間以外の動物にも応用できるのではないかとのコメントが提示された。この点について芦名氏は、正義とケアの倫理はとても重要であり、今後の研究課題として検討すべき論点であると応答した。さらに人間の特殊な責任と「スチュワードシップ(受託者責任)」との関わりについて問いが提示された。それに対して芦名氏は、キリスト教ではスチュワードシップがよく使われるが、その語の意味をよく考慮すべきであろうと答えた。たとえば、環境論では、人間中心主義が批判されるのに対して、その対極で生命中心主義が説かれる。そこでは人間の責任が重要になってくるが、この場合、芦名氏は人間の責任をスチュワードシップとは分けて考えたいと回答した。

 また別のコメントとして、比較宗教学の視点からみれば、今回の研究会での議論とは全く異なる議論の立て方と展開が可能であるとの意見も提示された。人間の責任については、仏教の立場から全く異なる責任論が出てくると思われる。かつて12世紀にイベリア半島ではユダヤ教、キリスト教、イスラームという三宗教の寛容論が成り立っていた。その根本にはイスラームの寛容があった。近代以前には他宗教との共存が成り立っていた。比較宗教学的には、たとえば、動物の問題も、アイヌの熊祭りのように、近代文明の視点から見ると残虐なように見えるが、それは決して残虐ではなかった。そうした理解への可能性を残しておく必要もあるとの意見も提示された。その点について芦名氏は、それらの問題は宗教倫理学会にとって、今後の重要な研究課題であると回答した。さらに動物を含む他者の権利を尊重するとは言っても、仏教で言う慈悲の心がなければ、他者の権利を尊重することにはならないとの意見も出された。

 これらのコメントや意見をふまえて、芦名氏は最後に、肝心なことは人権を認めるだけでは十分ではないということである。それは実際、人権を徹底できないという深刻な問題があるからだと述べた。そのとき、キリスト教でいう罪の問題に直面せざるをえない。そうしたことを自覚したうえで、人権のことを考えるとき、慈悲とか愛さらには寛容が重要になってくると芦名氏は強調した。

 以上のように、充実した内容の研究発表とコメント、および研究テーマに沿って、濃密な内容の全体討議がおこなわれた。

第3回研究会

日時
2023年6月16日(金)18:00-20:00
場所
オンライン
講師
小田淑子(元関西大学教授)
演題
日本的宗教と世間
コメンテーター
堀内みどり(天理大学教授)

小田氏の研究発表

 小田氏は日本的宗教の特性や世間の問題を解明するには、日本的宗教の伝統のなかでも、特に神道に関するより徹底した分析が必要であるとの認識にもとづき、日本的宗教のあり方を宗教学の視点から探究した。研究発表のおもな内容は、以下のとおりであった。

 

宗教史と宗教の類型「古層宗教」と「世界宗教」

 小田氏はまず、日本的宗教に関して藤原聖子編『日本人無宗教説』(筑摩選書)を紹介することで、日本人が「無宗教」であるとの主張に触れた。そのうえで、こうした日本的宗教のあり方を宗教学的に「宗教」として捉える必要性を主張し、神道を「古代宗教」の典型として位置づけることにより日本の宗教性を理解しようと試みた。

 さらに小田氏は、人類の宗教史と宗教の類型に注目して、仏教やキリスト教以前に、世界各地に存在した古代宗教や先住民の宗教(旧称「未開宗教」)を「古層宗教」と名づけた。この「古層宗教」はエリアーデのいう「古代宗教」(archaic religion)に相当するが、古層宗教と世界宗教の二類型に沿って人間の宗教性を捉えようとした。両者は異質で対立もするが、相補関係にもなり、特に日本的宗教の解明には重要であると論じた。

 小田氏のいう「古層宗教」は、創唱者が不在であり、その始まりも不明である。その多くは一神教の拡大に伴い消滅したが、ユダヤ教、ヒンドゥー教、神道、儒教さらに道教は今日まで変化しながら存続してきた。教典や教義を持たない場合も多く、神話と儀礼を重視する特徴をもつが、儀礼を継続していくことこそ、宗教の普遍性を示していると言える。また古層宗教は、季節の儀礼〔新年・春の豊穣祈願と秋の収穫感謝祭〕や通過儀礼〔誕生、七五三など成長期、成人式、結婚、葬儀など〕における豊穣祈願と収穫感謝が示唆するように、生業を重視する現世肯定型の宗教であるという。さらに古層宗教は、教団組織や教義体系をもたず、アニミズムやシャマニズム、占いをその一部に含むことも多い。エリアーデは古代宗教を生きる人間を「宗教的人間」(homo religiosus)と呼び、コスモスが宇宙・自然の秩序であると強調したが、コスモスが社会や共同体、民族などの社会学的秩序である点には言及していないと小田氏は述べた。

 それに対して、小田氏によれば、「世界宗教」は神学や教義学を発展させて、個人の信仰と救済を説き、現世否定的で来世志向の傾向が強い。古層宗教との相違点に注目すると、創唱者による布教活動で(古層宗教に属している人々を改宗させて)信者を獲得し、信仰共同体を形成して存続してきた。世界宗教は基本的に聖典を持ち、その教義は古層宗教を否定する。一神教は古層宗教の神々を否定し、その信者は古層宗教に留まる人々とは通婚せず、独立した共同体を確立した。通過儀礼の多くは、一神教的意味づけを与えられて受容され、感謝祭の季節儀礼は非公式に行われてきた。一方、仏教は古層宗教を否定することなく並存してきた場合が多いとも述べた。

 

日本的宗教の構造

 こうした宗教史的な議論をふまえて、小田氏は日本的宗教の構造を説明した。多神教である神道を「古層宗教」として捉える小田氏によれば、神道は個人の神信仰の意識が弱い。また日本人はキリスト教とイスラームの神をそれぞれ唯一神として認めたつもりになっているが、一神教が他の神々を崇拝しないし認めないという事実を適確に理解できていないという。日本人がこの事実を理解するには、宗教教育が大切であることを強調した。

 また小田氏によれば、日本的宗教では、儒教の受容方法が部分的であったという。日本社会では律令と倫理思想は受容されたが、儀礼は受容しなかった。天皇は天壇で新年儀礼をおこなわないし、死者儀礼も儒教ではなく仏教が担ってきた。儒教は学問とみなされ、仏教が儒教圏よりも日本で深く根づいたという。個人の宗教としての仏教は出家を要求するが、日本仏教は神道共同体の基盤を存続させて葬儀を引き受け、江戸時代に寺請制度によって先祖を仏として祀る「葬式仏教」あるいは「家の宗教」となった。そのことによって、仏教は日本的宗教に根づいたと小田氏は分析した。

 さらに日本的仏教共同体の形成については、初期は皇室や支配階級の支援によって、寺院や大仏が建立されたが、仏教が民衆に広まったのは鎌倉時代であった。小田氏によれば、仏教が個人の信仰を強調しても、農民は田の神への祭礼なしに稲作はできなかった。それが可能になるためには、氏神の代わりに仏への豊穣祈願のような制度が必要であった。さらにこのような共同体の独立には、非仏教徒との通婚の禁止が必要であったが、日本では仏教伝来以来、宗教および宗派による通婚禁止はほぼ存在しなかったと述べた。

 仏教は個人の宗教で、個人の救済を説き、教義は今も教義仏教として学ばれ、個人の信仰と救済への道は潜在的に開かれている。ところが、教団の基盤は江戸時代の檀家制度以後、「家の仏教」(生活仏教)に支えられ、多くの日本人が個人の信仰意識を持たず、仏教は信者たちに経典と教義をあまり教えなかった。そのことが明治初期、多くの日本人知識層が自分を「無宗教」として認識することに繋がったと指摘した。さらにわが国で近代化と都市化が始まると、田舎から都会へ出た人々は、寺と墓を田舎に残して、都会で新しく寺に所属することはなかった。この事実は、仏教が個人の信仰という教義面での原則を失い、家の宗教に甘んじていたことを示唆していると小田氏は指摘した。ただし、明治以後の近代仏教運動において、一部の人々の間で、個人の信仰としての仏教意識の高まりも生じたが、この運動も檀家制度の改革には向かわなかったとも述べた。

 個人の信仰意識が強い傾向をもつ一神教は、古層宗教を否定したが、自前で現世肯定の宗教性を生み出した。キリスト教はローマ社会をキリスト教化し、イスラームは最初から人間の社会生活を教義に取り込み、一神教は他宗教との重層化を拒絶した。中東のイスラーム社会や欧米のキリスト教社会に暮らすユダヤ教徒は、多数派のイスラームやキリスト教の儀礼(行事)に参加しなかったし、その宗教文化でも、世間の圧力より個人と神の関係性が優位になりやすかった。ところが、日本社会では宗教の重層化を認めないと、個人の信仰は守りにくい。宗教の重層化を可能にする根拠については、さらに掘り下げた考察が必要であるが、そこに世間的規範が絡んでいると小田氏は指摘した。

 最後に小田氏は、日本人は思想としての宗教に関心を抱いたとしても、日常生活の中で宗教の話をしない傾向がある。「言挙げを嫌う」文化に原因があるためか、宗教の教えや死生観を論じることが少ない。この点は今後の宗教教育の課題だろうと述べた。以上、小田氏の研究発表は、日本的宗教がもつ宗教性、あるいは澤井氏が言う「生活慣習としての宗教」の宗教学的コンテクストを明らかにするものであった。

 

コメントと全体討議

 小田氏の研究発表に続いて、研究プロジェクト委員長の澤井義次氏の司会のもと、コメントと全体討議がなされた。まず、コメンテーターの堀内氏は、小田氏の研究発表の目的が「生活慣習としての宗教」(澤井)の意味の探究にあったことを確認したうえで、小田氏が神道をエリアーデの「古代宗教」として位置づけたことの意義に注目した。「古層宗教」における神話と儀礼の伝承は、ヒンドゥー教などにも見られるように、身体性による宗教コミュニティの継承が特徴的であると述べた。また儀礼の継続性にこそ、宗教の普遍性があること、さらに世界宗教における神のイメージの内実は神道のそれとは違うという小田氏の考え方はとても興味深いとコメントした。

 コメントの最後で堀内氏は、日本社会が儒教を部分的に受容したこと、また葬儀が近年、簡略化されている傾向について、小田氏がどのように考えているのかと尋ねた。それに対して、小田氏は儒教については、中国哲学の加地伸行氏が日本社会は儒教の宗教性を排除して儒教を受容したとの考え方を説いているが、日本社会では神道がベースにあったので、儒教の要素は取り入れたが、儒教の儀礼を受容しなかったと回答した。また葬儀の簡略化については、ここ3年間はコロナ禍のために葬儀ができなかったとはいえ、長年継承されてきた葬儀の意義を考えるとき、葬儀は簡略化されてはならないことを強調した。参加者の中からも、コロナ禍のために家族葬が増えたが、このままでは日本人の宗教性が見失われてしまう可能性があるとの意見も提示された。

 その後の全体討議では、まず、小田氏が仏教は現世否定で来世志向であると述べた点について補足説明を求められて、小田氏は日本では仏国土を建設しようとする動きは弱かったと思われると回答した。また今日、多くの人が病院で死を迎えるが、宗教者は死者に対して何ができるのかとの問いが提示され、また同時に、今日、医師が「死の質」(quality of death)に注目するようになっているとの現況も報告された。その点について小田氏は、死の判定は医師に任さざるを得ないが、死の判定後は、やはり宗教者が関わるようになると答えた。昨今、スピリチュアルケアが医療に浸透しているからこそ、医師が死に関わることを考えるようになっていると考えられるとの意見も提示された。

 さらに空海が開山した高野山でも、地元の神が根強く人々の信仰を集めているとの報告がなされ、日本の神は土地の記憶と連関していると思われるとの意見も提示された。神道はアニミズムやシャマニズムなども組み込んでいるし、ヒンドゥー教とも類似した特徴をもっているとの意見も出た。また小田氏が言う「古層宗教」の枠組みは、いわゆる民俗宗教と重なるように思われるが、両者はどのように違うのかという問いが提示された。それに対して小田氏は、民俗宗教では国家神道や教派神道などの側面が排除されるが、「古層宗教」ではそれらの要素も含めていると小田氏は回答した。

 以上のように、日本的宗教のあり方に関する充実した内容の研究発表の後、興味深いコメントおよび全体討議が活発におこなわれた。

第4回研究会

日時
2023年7月27日(木)18:00-20:00
場所
オンライン(Zoom)
講師
岩田文昭(大阪教育大学教授)
演題
学校での宗教教育の現状と課題
コメンテーター
末村正代(南山宗教文化研究所 研究員)

 岩田氏はまず、教育基本法改正に伴う変化について説明したうえで、学校教育ではあまり注目されていない価値教育と価値観教育の内容に触れながら、最近の学校教育の行政の大きな流れを説明した。さらに、それをもとに宗教教育について、岩田氏のこれまでの教育実践を紹介した。

 ここに掲載する岩田氏の研究発表の概要は、当日の配布資料にもとづき、研究プロジェクト委員会がまとめたものである。岩田氏の研究発表に続いて、コメントおよび全体討議がおこなわれた。

 

岩田氏の研究発表(概要)

 本年度の研究テーマと宗教教育の問題は、「同調圧力」と「信仰の自由」の関係において重なる点がある。学校での宗教教育の実践には特有の困難がある。それは宗教教育の実践に反対・警戒する人に二種類あるためである。宗教そのものをできるだけ避け、敬遠あるいは嫌悪する人もいれば、宗教を重要視する人からも警戒の意見が出て、宗教教育の実践によって、同調圧力が加わり信仰の自由が脅かされると危惧する人もいる。

 現在、宗教教育に関心を持つ宗教学者には、いくつかのタイプがある。2006年の教育基本法改正以降、主だった宗教学者たちは宗教文化教育の構築・実践に重点を置いてきた。他方、特定の宗教に立脚する私立学校での宗教教育について考えて実践する宗教学者も少なくない。ところが、国公立の初等中等教育に宗教学者が言及するケースは少ない。たとえ言及するにしても、批判的な考察が多い。こういう状況において、国公立の初等中等教育における宗教教育の可能性を模索したい。

 

一 教育基本法改定前後の状況

 201612月、安倍晋三第一次政権において、教育基本法が改定された。その改定において、宗教教育は中心的な論点のひとつであった。宗教教育の内実をめぐってさまざまな議論がなされた。その結果、新たに「宗教に関する一般的な教養」を尊重するという一文が加えられた。その一文が付加されたものの、改定時における議論の中心は、「宗教的情操」を条文にいれるかどうかにあった。一般に宗教教育は三つの類型に分けられる。特定の宗教の信仰にもとづく「宗派教育」、さまざまな宗教に関する客観的知識を伝える「宗教知識教育」、さらに一般的な宗教的情操を養う「宗教的情操教育」である。これら三つの教育の是非は私立学校と国公立学校で分かれる。議論になったのは、国公立学校における「宗教的情操教育」の可否である。文科省の政策を決定するうえで、中教審の答申は尊重され、答申された内容は、多くの場合、政策として実際に実行に移されてきた。ところが、宗教的情操については、そうはならなかった。

 もちろん、政府はこの文言を条文に入れようとした。全日本仏教会をはじめ、かなりの宗教者もこれに賛同した。ただし、仏教界も一枚岩でなく、それに反対した仏教者も少なからずいた。政府・文科省はすべての宗教に共通な宗教心が存在すると想定している。宗教的情操を涵養することは、特定の宗教の教育をすることではないとしてきた。宗教的情操と同様なものが「畏敬の念」として、すでに学校教育のなかに入ってきている。学校現場では、「自然の荘厳さ」や「素晴らしい芸術作品」などを「人間の力を超えたもの」として授業をおこなっている。

 2006年の教育基本法改定において、「宗教的情操」の文言は入らず、「宗教に関する一般的な教養」の文言が挿入された。このことを背景に、「宗教文化教育」を推進する動きが生じてきた。宗教文化教育は、さしあたり「宗教知識教育」の一つと捉えられるが、必ずしも知識を供与するだけとは言えない。従来、あまり注目されてこなかった教育における「価値教育」について注目することで、宗教教育の現状を掘り下げてみたい。

 

価値教育・価値観教育・令和の教育観

 しばしば、学校教育において特定の「価値観」を押し付けてはいけないと言われる。それでは特定の「価値」はどうであろうか。結論を言えば、学校教育では特定の「価値」を身につけさせようとしている。宗教知識教育も「価値教育」と無関係ではない。それは「他者との共生・協働」とか「平和」というような価値と結びついている。日本の学校教育は、小学校から一貫して特定の諸価値を伝えている。

 そこで、次に問題となるのは、特定の「価値観」を教え込んでいるか否かということである。価値観にかかわる教育政策については、しばしば次のような二項対立が想定され、それにもとづいて論じられることがある。すなわち、「多元的な価値観を尊重する教育」か、それとも「特定の価値観を教え込もうとする教育」かという二項対立である。リベラルとみなされている研究者は、前者の教育の立場をとる傾向がある。このような二項対立が日本の研究者から提起されてきたのには一定の背景がある。道徳を特別な教科にすることやナショナリズムの意識を高めようとする動きがみられ、それへの警戒心があるからであろう。しかし、この二項対立がそのまま現実に適用できるかというと、そうなっているとは簡単には言いがたい。両者には対立する面があるものの、むしろ同じような時代認識の流れに掉さしているような状況にあるように思われる。両者に共通の時代認識を、202212月の中央教育審議会答申の内容から類推してみたい。この答申は、教員の働き方についての内容を主としているものの、そこに令和の教育観の前提となることが記されている。そこでのポイントは、「協働的な学びの実現」と「個別最適な学び」である。

 平成の終わりに、小学校・中学校・高校のそれぞれに告示された新学習指導要領では、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善と「個に応じた指導」の視点が強調されている。「個に応じた指導」の主な内容は二つある。第一に、支援を要する子供への重点的な指導や個々の特性に応じた指導方法・教材などを提供・設定する「指導の個別化」。第二に、各自の興味関心などに応じ、一人一人に応じた学習活動・学習課題に取り組む機会の提供である。これを学習者の視点から捉えると「個別最適な学び」と言える。

 こうした精神に呼応する仕方で、新たにつくられた科目が「公共」である。「公共」は「現代社会」の後継科目として位置づけられた科目であるが、選択ではなく高校の社会科での必履修になっている。この科目では、公共的な空間は客観的にそこにあるのではなく、それをつくることが強調されている。こういう「公共」の教科書が前提としている教育観は、かつての二項対立の一つの項として提示されたリベラルな教育観と共通する点がある。「公共」は「多元的な価値観を尊重」しているからである。もっとも、多元的な価値観が教科書に提示されているといっても、その効果を疑問視する意見もある。

 令和の教育観は、市場経済を推進する経済界からの要請にも対応している。その典型が「GIGAスクール構想」である。「GIGA(Global and Innovation Gateway for All)全ての児童・生徒のための世界につながる革新的な扉」を意味するこの構想により、教育現場で児童・生徒各自がパソコンやタブレットといったICT端末を活用できるようにする取り組みがなされている。この構想は文科省よりむしろ経産省が主導権を握っているとされる。

 このような新たな教育観にもとづく実践には、負の側面もある。その代表的な批判の一つは「分相応主義の枠組み」として表現される。この「分相応主義の枠組み」は、批判としてではなく、文科大臣から新しい教育の性格を説明するものとして述べられたこともあった。以上、おおまかに現代の教育状況を捉えたうえで、私自身が試みてきた宗教教育を説明したい。

 

教員養成大学における宗教教育

 私の本務校である大阪教育大は、関西における初等中等学校の教員を養成する機関大学である。国公立の学校教員志望の学生が多くいる。そのため、私の授業は、一般的な大学と同じような内容をする場合と、教員養成ならではの内容がある。

 

 1)≪一般的な宗教学の授業≫:まず、一般の大学と同様の宗教学の講義内容についてごく簡単に述べる。宗教学の授業では、基本的な宗教学の知を提供してから、学生がそれぞれ考えネットで調べたり、場合によっては議論したりする。その主題は、「現代の新しい聖地巡礼の評価」「フランスのヴェール問題をどう考えるか」「カルトと呼ばれる宗教とそうではない宗教を区別することができるか否か」などである。文科省の意図する「主体的・対話的で深い学び」を実践しようしているわけではないが、結果的にその意図に近い授業となっている。高校の「公共」の授業の大学の宗教学版というような位置になろう。多くの宗教学者のなしている授業と共通する点が多いと思われる。

 

 2)≪ビハーラ僧講演≫:教員養成大学としての授業内容に関して述べる。社会科の中学免許をとるための必修である「哲学の基礎」では、教員になる学生を前に、学校教育における「いのちの教育」をさまざまな観点から捉えかえすことを試みている。ここでの試みのうち、まず、毎年、ビハーラ僧を外部から招いてきたことから話を進める。この講演は、ホスピス関係者を学校に呼んで直接に話を聞くという中教審の答申に適うものである。特定の宗教を背景にした宗教者の講演は、現在の国公立の学校でも許容されている。

 国語・道徳・社会などそれぞれの授業において、それに相応する教育的価値に宗教的なものがまじることがある。このような場合、見方によればまったく「同調圧力」がないとはいえない。しかし、そこで児童・生徒に伝えようとする方法がその教育的価値に相応しいものであれば、「信仰の自由」を脅かすとまでは考えられていない。もっと言えば、特定の宗教に関与しない教育を遂行することは理念的に可能であるにしても、宗教的なものをまったく排除した教育は文化的・歴史的にきわめて貧しいものとなるであろう。現在の学校教育においても、それほどの多くはないものの、このような形で児童・生徒は特定の宗教的なものに出会っている。

 

 3)≪国語の教材(海のいのち)≫:「哲学の授業」では、学校で使用されている教科書をもとにいくつかの授業をしている。学校現場で「いのち」の意味をどう伝えているか、またどう教えるべきかを考えてもらうのが目的である。授業実践の具体的技術を伝えようとしているのではない。この授業では、学校現場で、いのちの意味を伝えるときの構造の理解を目指している。その構造とは、教師が児童・生徒に伝えるべき内容とそうでない内容があるという構造である。いのちの尊重に関わる価値が教科書に記載されている。この価値にかかわる情報を、教師は児童・生徒に的確に伝える必要がある。しかし、その価値を成り立たせている価値の根底をなすものを教師は教えることはできない。この根底に児童・生徒の思考を誘うにしても、それは児童・生徒一人ひとりに任されなければならない。

 このことを具体的に立松和平作「海のいのち」という教材をもとに説明したい。「海のいのち」は、小学校6年の国語の教科書(光村図書と東京書籍)に掲載され、現在、日本の小学生の多くが習う作品である。潜り漁師の少年を主人公とし、魚と人間との共生を主題とする物語だ。

 「海のいのち」は「いのち」のさまざまな面を示しながら、自然と共生する主人公を描いている。この作品は自然との共生という価値を伝えており、教師はそれを適切に教示する必要がある。ところが、自然との共生を選んだ主人公の価値観を支えている基盤については、児童の思考に任せている。主人公は自然との共生(具体的には父の仇であるクエを殺さなかったこと)を選んだことを誰にも語ることなく沈黙することで物語は終わる。以前の光村の教科書では、この沈黙の理由を児童に考え話し合うように勧めていた。そのため、児童は、主人公が有した価値観の基盤について、想像をめぐらし語りあうことになっていた。

 

 4)≪卒業論文≫:宗教と教育との関係を主題にして、卒業論文をした経験をもとに国公立の小中学校での宗教教育の可能性を考察したい。

 二年前に卒業した富山市出身の或る学生は、立山登山と宗教との関係を卒論のテーマにした。富山市では立山登山をする小学校が少なくない。「総合的な学習の時間」の一環として、立山に関わる事柄を学習し、その仕上げとして登山する学校もある。いうまでもなく立山は霊山として山岳信仰の場であった。その歴史を調べた上で登山することは、たんなる体力向上の機会以上のものを含んでいる。宗教施設を訪問・見学することに比して、もう一段、宗教的行為に近いものとなっているといえよう。それでは、このような立山登山を特定の宗教行為として否定されるのだろうか。私は立山登山が肯定されるのは、地域の伝統に触れ、郷土愛を育むという点にあると考える。登山の仕方などに配慮すれば、これが信仰の自由を脅かすとまではいえないのではないだろうか。

 小正月にされる「とんど焼き」(どんど焼き)を論じた学生もいた。兵庫県加古川市には、学校行事の一環としてそれが行われている小学校がある。この行事は、宗教的意味も含まれているものの、学校の方針としては、地域の伝統を体験するとともに、老人や幼稚園・保育園の園児たちと交流を主だった目的としている。地域交流、伝統行事体験といった目的のためにとんど焼きを用いているのである。

 立山登山にしろ、とんど焼きにしろ、それは令和の日本型教育のなかでは推進する方向にはない。学校現場は、ICTや英語教育など新たな課題をこなすのに関心が向かっており、このような伝統行事の運営に割く余力はなくなっている。

 

終わりに

 現代の日本では、公的領域と私的領域を分けて、宗教を私的領域に限定しようとする世俗主義的傾向が強い。国公立の初等中等教育では、この傾向がとりわけ強いように思われる。それを積極的にいえば、内面の「信仰の自由」を尊重するため、「同調圧力」を加えない状況である。逆に否定的にいえば、そもそも宗教が語られる場やそれに触れることをタブー視する雰囲気が強まっていると言える。このような世俗主義の枠組みの中で展開されていく教育行政のあり方について宗教学者ができることはきわめて限られている。とりわけ大半の宗教学者は高等教育機関を基盤にするため、初等中等教育について関心を持つこと自体が少ないであろう。令和の教育方針からすると、宗教性にかかわるような教育は、国公立の小中学校ではより減少していくことになろう。そのなかで特に危惧されるのは、国語の教科書で実用的な教材が増え、人間の内面を描くような物語の掲載が減りつつあるという方向性である。

 小中学校の教材では現在までのところ目立った動きはないものの、高校の国語では、この方向性が現実化されている。平成 28 12 21 日の中央教育審議会答申(中教審第197号)では、高等学校国語科の課題として、「教材への依存度が高く、主体的な言語活動が軽視され、依然として講義調の伝達型授業に偏っている傾向」が危惧され、「教材の読み取りが指導の中心」になっていると批判された。その結果、実社会における国語による諸活動に必要な資質・能力を育成する「現代の国語」が必履修となった。

 国公立の小中学校では、直接的な宗教教育を行うことは困難であると思われる。しかし、人間性を豊かにするような教育は必要だと考えられる。そのような人間性が宗教的感性を受容する基盤となるであろう。とはいえ、この問題に対して、宗教学者ができることはきわめて限られている。

 

コメントと全体討議

 岩田氏の上述した研究発表に続いて、研究プロジェクト委員長の澤井義次氏の司会のもと、コメントと全体討議がなされた。

 まず、コメンテーターの末村氏は、岩田氏の研究発表のおもな内容を確認したうえで、若干のコメントおよび問いを提示した。教育の現場では、宗教的情操を育むことと特定の宗教を信仰することがいかに区別されているのかという問いを提示した。また「畏敬の念」については、教育の現場で、いかに教えられているのかという問いも提示した。そうした問いに対して、岩田氏は1970年代か80年代になって、「道徳」の教材に「畏敬の念」の語が入るようになったが、文科省では、特定の宗教に依らなくても「畏敬の念」や「宗教的情操」を育むことができると捉えている。また、「道徳」では、深みのある教材は教えにくいが、「国語」のほうが時間数も多いので、深みのある授業も可能であると回答した。

 その後の全体会議では、戦後、「畏敬の念」の語によって、「宗教」の教育を避けてきたが、その点に問題があるのでは、との問いが提示された。たとえば、立山登山であれ正月行事のとんど焼きであれ、それらは神道と密接な連関性がある。それを郷土愛と結びつけて宗教ではないと言うことに問題があるとの意見が提示された。また、現代の日本社会では、イスラームやヒンドゥー教などの信仰をもつ異文化の人々と生活せざるを得ないグローバルな状況を考えると、宗教と公共性の関わりや宗教をタブー視することの危険性も教える必要があるのでは、との意見も提示された。それらの意見に対して岩田氏は、教育の現場では、たとえば、立山登山やとんど焼きが「宗教」であると言えば、それらのことを学校では教えられなくなるとの現状を報告した。岩田氏のそうした回答については、その背景に戦前の日本社会における神道に傾斜した教育への反動のようなものがあり、現代の日本社会における宗教教育を難しくしていると思われるとの意見も提示された。またその点と関連して、学校の現場で、「畏敬の念」を教えるとともに、「他宗教への尊敬」も教える必要があるとの意見も提示された。それに対して岩田氏は、外国籍の多くの人々が日本社会に入ってきている今日、文科省も多文化共生の必要性を説いており、日本語教育も含めて、他文化の人々の受容を推進するようになっていると報告した。さらに、大学の教員養成の現場で、宗教がどの程度、教えられているのかとの問いも提示された。それに対して岩田氏は、教員養成の現場では、宗教学を専門にする人材がほとんどいないのが現状であると回答した。

 日本人は多神教で他宗教に「寛容」であるとされるのに対して、一神教は排他的であるとの不適切な言説がインターネットなどで広がっているが、そうした現状を改めるためにも、宗教的リテラシーが大切であるとの意見も提示された。現代日本の大学生が宗教の知識をもっていないのは、教育の現場で、宗教を教えてこなかったからであり、宗教の知識教育が必要であるとの意見も提示された。海外では、たとえば、イタリアの学校では、諸宗教の基本的知識が教育されているが、宗教を教えているのがほとんどキリスト教の神父であるとの報告もなされた。移民が多いドイツでは、学校現場で州ごとに独自の対応がなされているようだとの報告もなされた。

 また医療の現場では、海外の人々は、宗教を背景にもって医療活動をしている。医療を学ぶ日本人の大学生は、生と死を日本の伝統文化との関わりのなかで説明する傾向があるが、地域の伝統文化や郷土愛を背景に、日本人がもつ広い宗教的情操を培っていくことが大切であるとの意見も提示された。その意見に対して岩田氏は、教員が宗教について全てを教えることは難しいので、たとえば、ムスリムを講師として招いて、イスラームの教えについて学校現場で講演を依頼することがあっていいし、そうしたことは宗教教育のうえで意義深いと思われるとコメントした。

 以上、岩田氏の充実した内容の研究発表をふまえて、研究会に参加した会員のあいだで、現代日本の宗教教育とその課題をめぐって、興味深いコメントおよび全体討議が活発におこなわれた。