研究プロジェクト

研究プロジェクト

2002年度

「コスモスとしての身体―エコロジーと宗教―」

今年度の研究プロジェクトは、宗教や科学のパースペクティヴから、身体をミクロな生命現象とマクロな地球環境を媒介する「コスモス」(世界・宇宙)としてとらえ、現代の環境問題にアプローチする。
昨年度の研究プロジェクトにおいては、エコロジーと宗教の関わりのなかでも、おもに「自然」に注目しながら研究を進めた。今回はその研究成果を踏まえ、「身体」へと研究の視点を転換して、今秋の第3回学術大会(10月19日)の開催へ向けて、研究を進めていきたいと考えている。

第1回研究会

日時
2002年4月25日(木)18:00-20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第1会議室
「宗教と身体―ギリシャ正教を例に―」

落合仁司(同志社大学)
コメント:芦名定道(京都大学)

 

 落合氏は、まずギリシャ哲学との関わりにおいて、キリスト教の身体観の特徴について述べた。神(テオス)は「この世界の他者」として無限であるが、それに対して、有限性を特徴づける身体をもつ人間は有限である。無限なる神は否定神学でいわれるように、有限なる人間には認識できない。しかし、「この世界=身体の他者」である神が、この世界にイエス・キリストすなわち「受肉=身体化した神」として現われ、また、聖霊は洗礼を受けた一人ひとりの身体に臨在する神であるとみなされた。神の他者性(あるいは超越性)とイエス・キリストの身体性の共存は論理矛盾であるが、ニカイア・コンスタンティノポリス公会議において、それら三者の関係性は「三一論」として決定された。つまり、神・イエス・聖霊は「異なる三つの実存(ヒュポスタシス)」であるが、「同じ一つの本質(ウーシア)」であると考えられた。

 

 そのうえで、落合氏は身体性に関する2つのベクトルに言及した。一つのベクトルとは、恋人を身体的に愛するかのように、神が人をあるいは人が神を愛するというものである。聖霊は人間の身体に寄り添う神であり、神と人間は、いわばエロティックな関係にある。もう一つのベクトルは、いまこの身体性を超えて「神となる」(テオーシス)というものである。さらに落合氏は、ギリシャのアトス山にあるギリシャ正教の修道院において、みずから体験した内容に触れながら、ギリシャ正教の修行法について述べた。落合氏によれば、修道院では「へシュカズム」("静寂を求めること"の意)とよばれる祈りの修行法が実践される。この修行法によって身体は静まりかえり、「人間の神化」、すなわち「人間と神との一致」あるいは「身体と聖霊との一致」が現成する。そのとき、神に祈っている自己が消失し、祈りの対象である神が祈っているようになる。つまり、この精神身体技法をとおして、人間はいまのこの身体のままで神に出会うことができる。その宗教体験を判断するのは、一般民衆の信仰を集めている「ゲロン」とよばれる長老である。

 

 14世紀になると、「パラミズム」がギリシャ正教の教義として公会議で決定された。「パラミズム」とは神の本質(ウーシア)が他者性に在るために、われわれ人間は神の本質と接することができない。他方、人間は神ご自身であるその活動(エネルゲイア)と一致し、神化することが出来る。それゆえ人間が神化すると、神はすでに自らの向こうへ超越している(「神の自己超越」)、という教義である。カトリック教会におけるトミズムが、神の本質(ウーシア)は自己の活動(エネルゲイア)と同一であると主張したのに対して、ギリシャ正教におけるパラミズムは、神のウーシアが自らのエネルゲイアをも超えていると主張した。

 

 落合氏の研究発表を受けて、芦名氏はコメントとしてつぎの3点を述べた。ギリシャ正教のおもな特徴は、神が人間となるとともに、逆に人間が神になるという教義にみられる。また、それは聖霊が人間に寄り添っているという教義にもみられる。さらに、人間が神化するための修行法をもつギリシャ正教は、次第にむしろ理知的になってきたカトリック教会やプロテスタントとちがっている。こうしたコメントの後、芦名氏はつぎの問いを行なった。すなわち、エコロジーとの関わりにおいて、ギリシャ正教の身体観はカトリック教会やプロテスタントの身体観とどのようにちがっているのか。聖霊が身体に寄り添うということは、エコロジーの視点からみれば、宇宙が聖霊の臨在の場であることを意味しているのか、という問いを提示した。その問いに対して落合氏は、ゲロン(長老)が木の中にも聖霊が宿ると語ったことを具体例として取り上げながら、非公式な神観であると断わりながらも、つぎのように答えた。すなわち、ギリシャ正教の神観は、神がすべての存在に貫いている、いわゆる「万有在神論」(panentheism)であり、聖霊がすべての存在に臨在している。その意味において、その神観にはディープ・エコロジーの考え方と共通するものがあると述べた。

 

 全体討議においては、活発な質疑応答が行なわれたが、主要な討議内容は以下のとおりである。まず「人間が神になる」とは具体的にどういうことなのかという問いが出された。それに対して、落合氏は修行したとき、ただ一時的に神と一体になることができるのであって、ふだんはそうではないと述べた。また、修行法のマニュアルがあるのかとの問いに対しては、公式見解としてマニュアルはいけないとされているが、修行法は大体、浄化・祈り・神との一致という三階梯からなると述べた。また、ギリシャ世界へ入る以前のキリスト教はどういうものであったのかとの問いに対しては、それは原始キリスト教ともいうべき、アラム語のキリスト教であった。それはユダヤ教の自己改革の一派であったと言えるだろうと述べた。また、「万有在神論」(panentheism)と「汎神論」(pantheism)はどのように違っているのかとの問いに対して、落合氏は万有在神論によれば、人間存在は神を裏切る自由意志をもっているのに対して、汎神論によれば、人間はそういう自由意志をもっていない。そういう点において、両者はちがっていると答えた。さらに、エコロジーとの関係からみれば、世界におけるすべての存在は、聖霊としての神に寄り添われて存在している。人間の身体も神の愛によって存在しており、人間みずからがコントロールしているわけではない。その意味では、キリスト教はとかく人間中心主義的であると言われるが、その表現は適切ではない、と落合氏は述べた。

第2回研究会

日時
2002年5月22日(水)18:00-20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第3会議室
「仏教の身体論―衆生の身体と生態系の身体――」

宮下晴輝(大谷大学)
コメント:福永俊哉(京都女子大学)

 

 宮下氏は、まず「エコロジーと宗教」に関する一般的な考え方のもつ問題点を指摘することによって、研究発表の論点を明確にした。そのうえで、仏教の身体論の特質について、とくに「衆生」の概念と意味に焦点を絞りながら論じた。
 「エコロジーと宗教」に関する一般的な考え方は、人間も生態系の一構成員であり、多様な生物種の内的価値を承認し、人間中心主義から生命中心主義へ移行すべきであるというものである。しかし宮下氏は、人間中心主義から生命中心主義へとすぐに移行するのではなく、現代の科学が明らかにしている事柄にもっと注目すべきであろうと指摘した。
そうした議論を踏まえて、宮下氏は生物の身体という視点からみるとき、個々の生物個体における「自己の身体」には、それが欲求し必要として形成してきた「小さい自然」があり、それを凌駕するものとして、生物種間において形成されてきた「大きい自然」があると述べた。また、仏伝における少年シッダールタの、いわゆる「樹下観耕」のエピソードは、「生きとし生けるもの」すなわち衆生の生きる姿と、その生きるという事態そのことについて憂い思索するという2つの事柄を物語っている。それは仏教の基本的な課題がどこにあるのかを示していると述べた。
 さらに、宮下氏は「衆生」(sattva)の概念と意味について論じた。衆生とは「生きとし生けるもの」であるが、実際にはどれだけの生物種を指しているのか。この点に関しては、出家者の戒律のなかに「草木戒」と呼ばれるものがあり、比丘が草木を害することを禁止している。近年、エコロジーの高まりの中で、この戒律条項が注目されているが、シュミットハウゼンの議論によれば、植物が衆生のカテゴリーに入るかどうかは「境界線上にある」という。しかし、宮下氏はこうした禁止条項が町の人びとの生命観に準じて制定されたものであり、いわゆる不殺生戒の対象である衆生のカテゴリーの中に、草木や土地が入ることを示したものではないと指摘した。
 ともあれ、宮下氏によれば、前述のエピソードにおいて、「鳥が虫をついばむという事態は、今日のエコシステムからすれば、個体群という群集間における食物連鎖という機構を表わすものである」。しかし、この物語は、「エコシステムの中のひとつの事態に注目しているが、生態系の保護思想とは何の関係もない。あえてその事態の中心的な要素を取り出せば、個体による殺と死と食とである」。この事態が「憂い」とか「愍(あわ)れ」としてとらえられる。また、ここで「慈悲心を起こす」とも語られる。仏陀の問いはすぐれて人間的な問いであった。老病死そのこと自体は生命を生きる身体にある。そこで、老病死の苦を苦しむことになる。身体をもっているという点では、仏陀もまた、「業生のもの」としての一衆生であった。
 このように、仏教の身体観の特質を明らかにした後、宮下氏は「人間においては、身体をもって生きることの悲しみは、苦を超えた生に向かって生きる喜びに転化しうる」。また、生態系において「人間であることの積極的な意味と喜び」を見いだすところに、「生態系の破壊を憂い悲しみ生態系を保護しようとする心は、万人のものとなるに違いない」と述べ、研究発表を締め括った。
 宮下氏の研究発表を受けて、コメンテーターの福永氏は、西洋哲学の身体論の視点から、「業生のものとしての衆生」の思想とメルロ=ポンティ以後の「身体的な主体」の思想を比較しながら、それらの類似点を明らかにした。そのうえで、つぎの問いを提示した。すなわち、ハイデッガーは人間が共同存在として在ると述べたが、レヴィナスは自他の区別を曖昧にすることを批判している。仏教が衆生と自己を同一視すると、かえって自然破壊が見過ごされることになるのではなかろうか。その問いに対して、宮下氏は仏教では衆生と自己を同一視しているわけではないと答え、いわばアニミズム的な生命中心主義の考え方に対して批判的な立場であると述べた。
 全体討議においては、活発な討議が行なわれたが、おもな討議内容は以下のとおりである。まず、ハイデッガーのいう共同存在とは、人間レベルでのあり方を意味しているのであって、人間と他の生あるものとの関わり方を意味してはいない。その意味において、「衆生」の概念は、エコロジーとの関わりの中で「コスモスとしての身体」を考える場合、仏教独特のキーワードであるであろうとの意見が提示された。また、シュミットハウゼンは衆生のカテゴリーに植物が入るかどうかを議論しているが、仏教の教えはそういう分類学的な前提にもとづいて説かれているわけではない、というコメントも述べられた。
いわゆる「草木成仏」論と「衆生」の関わりについても、いろいろと討議された。その討議において、「草木成仏」論は特に天台宗の教義に顕著にみられるとのコメントが出され、また「無情」と「有情」を区別するとき、衆生は「有情」を意味するとの指摘も示された。さらに、エコロジーの問題があろうとなかろうと、老病死の苦が存在するのであれば、環境が人為的に破壊されるというのは、苦のひとつのバリエーションなのかという問いが提示された。それに対して、宮下氏は研究発表では、苦の概念を限定して使用したが、その問題点については、これまで十分に研究されていないと答えた。また近年、エコロジーの視点から、ディープ・エコロジーと仏教を結びつけて、仏教の教えが語られることもあるが、宮下氏の研究発表をとおして、両者が必ずしもリンクしていないことが明らかになったとのコメントも提示された。

 

第3回研究会

日時
2002年6月19日(水)18:20-20:20
場所
キャンパスプラザ京都 4階 第4講義室
「『元の理』における身体=世界"相関"のシンボリズム ―天理教の身体論とコスモロジー試論―」

金子 昭(天理大学)
コメント:落合仁司(同志社大学)

 

 金子氏は天理教の身体論とコスモロジーについて研究発表を行なった。まず、天理教の教祖中山みきが説いた創造説話「元の理」の文献について簡潔に説明した後、天理教のコスモロジーにおける人類と自然の共進化について、おもにつぎの2点を中心にして論じた。(1)人間創造の原点[究極の過去]には、すでに人類の生存の目標[究極の未来]、すなわち「陽気ぐらし」の設定がなされていた。(2)人間創造と人間としての育成が大変長い年限をかけて行なわれているのが、天理教のコスモロジーの特徴である。すなわち、世界の原初は「どろ海」であったが、その状態における親神の人間創造は「9億9万9千9百9十9年前」のことであったと象徴的に語られている。
 そのうえで、金子氏は「元の理」の内容を分析的に論じた。人間創造のプロセスによれば、親神は「どろ海」における水生生物を引き寄せて、それらを人間の身体機能の「道具・雛型」として用いた。人間が「生れ更わり」を経て、少しずつ成人するのに応じて、「海山も月日も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をする」ようになった。このように、天理教の「元の理」の話によれば、人間と自然は共進化してきたと説かれている。
 この「元の理」の話にもとづいて、金子氏は人間の身体機能が自然世界における親神の守護に対応していることを論じた。たとえば、人間の身体における「眼・うるおい」は、自然世界における「水」の守護に対応しており、また体温の機能は自然世界における「火」の守護に対応している。このように、人間の身体と世界における親神の十の働きが説かれる。そのうえで、この世界は親神の「からだ」であり、人間の身体は親神からの「かりもの」であるという教理を説明した。
 さらに「元の理」が生命の倫理に寄与できる考え方として、おもにつぎの5点を挙げた。(1)外なる環境(自然世界)が病めば、内なる環境(身体)も病む(「二つ一つ」の論理)。身体とは環境倫理と生命倫理を媒介させる概念である。(2)「どろ海」という混沌状態から、この世界は「水土」が判然として出来上がっている。(3)人間の身体には水生生物の機能が象徴的に体現され、人間は生かされて生きている。(4)人類は親神の「からだ」である世界を自己の欲望のために汚染しているので、人間には地球環境に対する格別の責任がある。
 金子氏の研究発表を受けて、落合氏はコメントとしておもにつぎの2点を述べた。まず天理教では、この世界は「神のからだ」であり、人間の身体が親神からの「かりもの」であると説いているが、その世界観はカトリックにおけるトミズムの思想、すなわち、神は存在それ自体であり、あらゆるものは神すなわち存在の分与であるという考え方とたいへん類似していると指摘した。さらに天理教では、世界の原初(カオス)状態は「どろ海」のイメージで表現される。環境学ではキーワードとして「水土」が注目されている。東アジアでは、風土のキーワードである「大気」も重要であるが、もっとも重要なのは「水」であろうとコメントした。
 その後の全体討議では、さまざまな討議が行なわれたが、おもな討議内容は以下のとおりである。まず、天理教の人間世界創造論は、「創造の秩序」を説いたカトリックの創造論とよく似ているが、教祖中山みきが生きた当時の宗教状況において、天理教が他宗教とどのように関係していたのかという問いが提示された。その問いに対して、金子氏は天理教の教祖は浄土宗の信仰をもっていたが、教祖が説いた教えと直接、結びつくような信仰や伝承が当時の大和には存在しなかったと答えた。また老荘思想では、「渾沌」が説かれるが、天理教の「どろ海」の混沌状態に影響しているのかどうかとの問いが出された。それに対して、直接的な影響はないと考えられると述べたうえで、老荘思想における「渾沌」はそれ自体が創造力を発揮する。それに対して、天理教では、「どろ海」そのものが自己展開するわけではなく、「どろ海」からの人間世界の創造には、親神の意志が働いていたとされる。そうした点で、両概念の意味は違っていると答えた。さらに教祖中山みきは「神」であるのか、それとも「仲介者」であるのかという問いが出されたが、それに対しては、教祖は仲介者としての側面をもっているが、「地上の月日(すなわち親神)」といわれ、親神がこの世界に顕現した姿であると教えられる、と答えた。
 また、宗教とは教えと現実のギャップをもちながらも、その理想を実現しようとするが、天理教ではエコロジーに関して、どのような実践が具体的に説かれているのかという問いが出された。それに対して、金子氏は親神の守護によって生かされていることに対する報恩感謝の行為としての「ひのきしん」を取り上げ、地球環境に対する感謝と慎みの生き方が強調されていると答えた。また、天理教と医療の関係に関する問いが提示されたが、その問いに対しては、天理教の教えによれば、医療は「修理肥」として位置づけられ、天理教の天理よろづ相談所病院「憩の家」では教えに照らして、心と身体をホーリスティックに捉える医療が行なわれていると述べた。さらに脳死・臓器移植については、「憩の家」病院は2つのレベルで判断を行なっていると述べた。すなわち、「憩の家」の医の倫理委員会は、厚生省の「臓器提供施設」指定を「高度医療機関としての公益性」に鑑みて受諾したが、天理教の教理レベルでは、親神の思いに照らして、慎重に判断すべきであるという見解であることを述べた。

 

第4回研究会

日時
2002年7月11日(木)18:00-20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第3会議室
「環境問題―暴力批判論の視点から―」

谷本光男(龍谷大学)
コメント:小原克博(同志社大学)

 

 谷本氏は人間の「暴力」を議論の手がかりとしながら、環境問題を「人間の自然に対する暴力」の問題として捉えなおし、その問題の本質を明らかにしようとした。
まずモラル・ハラスメント(精神的な嫌がらせ)という、「人間の人間に対する暴力」を取り上げた。それは外部から見れば「見えない暴力」である。こうした「人間の人間に対する暴力」を踏まえて、谷本氏は人間の自然環境に対する、いわゆる「暴力」、すなわち生物多様性の破壊に言及した。生物の多様性とは、「種の中における遺伝子の多様性」、「ある地域における種の多様性」、「生態系の多様性」という3つの多様性を意味している。生物の多様性の危機的状況は、人間以外の生物に対する「暴力」の問題として捉えることができるという。
 谷本氏によれば、「暴力」とは人間中心主義的な概念である。「暴力」とは自然現象ではなく、人間的な現象である。このことは、「暴力」が倫理的な次元で問題とされることを意味しているが、環境問題は「人間の自然に対する暴力の問題」として捉えられるべきである。人間中心主義とは人間だけが直接的な倫理的配慮の対象であり、環境倫理学者たちは、今日の環境問題の根底には、人間中心の価値観があると考えている。それに対して、「脱・人間中心の環境倫理学」は自然界における人間以外の存在も直接的な「倫理的配慮の対象」に含めること、言い換えれば、それらに「内在的価値」を認めることを主張している。
 伝統的な倫理的な枠組みを検討するために、谷本氏は具体例のひとつとして、アメリカのヘッチヘッチ渓谷の環境保護をめぐる、いわゆる「ヘッチヘッチ論争」を取り上げた。それは自然を賢明に管理していくことが自然保護であるというピンショーの「保全」(conservation)思想と自然を人間の手を加えずにそのままの形で残していくというミューアの「保存」(preservation)思想の対立である。ピンショーの思想によれば、環境保護の根拠はあくまでも人間の利益・福祉である。
しかし、人間中心の倫理に対する批判から、「脱・人間中心の環境倫理学」の考え方が提示された。それは大きく分けるとつぎの3つである。すなわち、(1)「感覚をもつ生き物の利益」に基づく環境倫理学、(2)「生命に対する畏敬」に基づく環境倫理学、(3)ディープ・エコロジーである。これらすべてに共通するのは、人間以外の自然の存在に「内在的価値」を認め、道徳的配慮の対象にそれらを含め、それによって人間の行為を規制しようという点である。ここで「内在的価値」の意味について、谷本氏は3つの意味を挙げた。すなわち、「非道具的価値としての内在的価値」、「あるものが、その内在的性質からのみもつところの価値」、「客観的価値としての内在的価値」である。ところが、これらの3つの意味はしばしば混同して使用されていることを指摘した。
 以上の議論をとおして、谷本氏はこれまで環境倫理学の多くの議論が「価値の客観主義」をめぐって行なわれてきたが、「自然界における人間以外の存在は内在的価値をもつ」という環境倫理学の主張を受け入れるのに、「価値の客観主義」的見解にコミットする必要はないと述べて、研究発表の結びとした。
 谷本氏の研究発表を受けて、小原氏はおもにつぎの3点についてコメントを行なった。まず谷本氏が、いわゆる「暴力」の概念を人間中心的な概念としてばかりでなく、環境問題を捉えるための概念としても、視点をずらして理解しようとした点はたいへん興味深い。また第二に、環境倫理学の視点からみれば、「人間の自然に対する暴力」という環境問題の根底には人間中心主義批判がある。ヘッチヘッチ論争にみられるように、従来の倫理的な枠組みそれ自体が問いなおされている。人間存在と切り離して、自然に対して「内在的価値」を認めるかどうかは、まさに倫理学的な課題である。ちなみに、自然が存在するだけで価値があるという点については、すでに宗教倫理がこれまで説いてきたことである。第三のコメントとして、環境倫理学において、自然界のどこまでを価値あるものとみなすか、という境界設定があらためて問われていると言えるであろう。
 その後の全体会議では、自然のなかに、人間存在と独立した「内在的価値」が認められるのかという論点を中心にして、活発な議論が展開された。おもな討議内容は以下のとおりである。まず、自然がはたして人間から独立した「内在的価値」をもっているのだろうか。つまり、環境問題に関する基本的な考え方としては、人間の欲望の肥大化という人間存在の倫理性の問題に収斂させてよいのではないか、という問いが提示された。その問いに対して、谷本氏は現在、この問題点について、環境社会学でもいろいろと議論されているが、人間の欲望の肥大化という考え方だけでは、問題は解決しないように思われると答えた。
 自然の存在そのものに価値を認めるというとき、そこには価値の序列化に対するアンチテーゼがある。それは理念的によく理解できるし、環境問題に関する視点を変えることはできるが、はたして現実の問題になったときにどうなるのかという意見が出された。また、環境倫理学における3分類のなかで、「感覚をもつ生き物の利益」および「生命に対する畏敬」に基づく環境倫理学が、個々の生き物を守ろうとする個体主義的な立場をとっているのに対して、ディープ・エコロジーはたとえ個々の生き物を犠牲にしたとしても、生態系のシステムを守ろうとするところに特徴があるというコメントが提示された。
 さらに環境倫理学において、自然のもつ「内在的価値」の問題が、世代間倫理や南北の問題、あるいは環境の「保存」か「保全」かという問題の議論とどのように連関しているのか、また、環境倫理の側面から、経済学の理論を再構築できるのかという問いが提示されたが、さまざまな討議のなかで、それは人間が自然との共生をいかに取り戻すことができるのかという、いわば宗教的なあり方にかかっているのではなかろうかとの意見も出された。最後に谷本氏は、自然の存在そのものに価値を認めるというとき、その価値そのものにすでに宗教性が内包されているので、「神聖なるもの」(the divine)、「聖なるもの」(the holy)という宗教的な価値を基軸に据えることによって、その議論は説得力をもったものになる。ヴェイユが意図していたのもその点にあったと述べた。

第5回研究会

日時
2002年9月11日(水)18:00-20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第1会議室
「身体論と倫理」

福永俊哉(京都女子大学)
コメント:徳永道雄(京都女子大学)

 

 メルロ=ポンティの身体論に至るため、福永氏はまず、メルロ=ポンティの身体的実在の哲学史上の位置について検討することから始めた。メルロの言う身体とは、例えばベルクソンの『形而上学入門』における、直接体験(=直観)可能な、<変化そのもの>であるような、<実在的なもの>、<体験されたもの>、<具体的なもの>、生成しつつある事物である<多を統一した実在する持続>といった内容である。このような実在(realite)、<生きられる持続>、<体験される持続>はしかし、哲学の歴史の中ではあまり検討されて来なかった。変化そのものであるような具体的実在を根底に置いて、形而上学(哲学)を構築しようとするような試みは、西ヨーロッパの風土の中では本流にはなり得なかったと言ってよい。医学や物理学をはじめとする近代自然科学の前提する素朴実在論や経験論の思想は客観的実在の存在を前提の上に初めて成立するし、また逆に主知主義の思想に於ては観念や純粋思惟の実在から出発するからである。
 ベルクソンは、そうした持続を、『形而上学入門』に於て直観の対象として外在するものと考えたが、これに対してメルロ=ポンティはそのような実在を、実在ではなく身体(corps)と呼び、その内在性を重要なモメントと考えるところから出発するのである。こうした身体は、『行動の構造』『知覚の現象学』といった前期の著作に於て、生物行動学的な実存の意味の層として理解されるところから始まるが、言語学についての研究をへて、晩年の『見えるものと見えないもの』では、行動的・言語的な全ての意味を現実に了解・把握するところの世界経験及び認識の根拠となっている。肉という名で語られる後期の身体は、徹頭徹尾世界に内属し、世界と一つになった身体であり、その議論は内部存在論(Endo-ontoligie)と呼ばれる。肉とは、<まだ反省と直観が区別されていない場所>、<主観と客観、事実存在と本質を同じにごたまぜに与えてくれる><経験の場>であるところの、可視性、可知性、<根源的現前化可能性(Urprasentierbarkeit)>を言う(みすず書訳p.181以降)。人は肉(身体)であることによって、またその限りに於て世界を認識し、同じに世界と痛みを分かち合う。メルロの肉(chair)の内部存在論は、身体を純粋な客体ととらえるような、物体としての身体についての議論ではない。それは、中世のヘルメス主義に見られるAnima mundiや Vita mundiの議論に類似の一元論的な視点を持つ。
 次に福永氏は、こうした身体論が、共感(compassion)の母体、共感可能性であるということ、身体としての主体は悲しみを知る<受苦可能性>としての「パトス的自我」(久重忠夫)足りうるということを指摘した。倫理には、平等と社会維持を保障するべく自由を制限する外的強制としての社会規範としての正義的側面がある一方、内的自発性としてのケア的側面が存在する。メルロの身体論は、他者や自然に対する、共感に基づく内発性の倫理必要を積極的に擁護する役割を果たすことになろう。
 続いて氏は、こうした内発性の倫理、感情の自然と悲しむ主体の倫理の例として、「ケアの倫理」を取り上げた。有力な論者の一人、ネル・ノディングス(Nel Noddings)によれば、その倫理は父性的な法と原理による処罰の倫理ではない。受容性・関係性・応答性を特徴とする母親(女性)の倫理である。そうして、人と人との関係こそが人間存在の基礎であり、そしてケアという相互性の関係が倫理の基礎にある根源的関係であると言う。「ケアの倫理は正当化を力説しない。ケアする人としては、私は私の行為の正当化を探し求めたりしない。私は法廷のようなものの前に一人で立っているのではないのだ。」(p.95, Caring)「私達は、ケアでないことを"正当化"する必要があるのだ。」(上同)
 世界に対する根源的関心を持ちつつ身体という仕方で実存すること。そのような生ける実在を認めることは、従来、西欧文化の主流ではなかった。それは科学の立場にも、主知主義的な立場にも反するからである。しかし、例えば、イリガライ(Luce Illigaray)が語るように、ジェンダー論の視点から見られた男性文化としての哲学や倫理、宗教は、ジェンダーとしての女性の観点----具体的には関係性や受容性----を取り入れなければならないのではないか。
 以上のような福永氏の発表を受けて、徳永氏は二点の質問を寄せた。一点目は、身体の内に他者や世界を包摂するということの結論として、果たしてそのような身体は仏教の縁起にまで及ぶことになるのかということ。二点目は、ケアの倫理にどのようにして身体論的観点から入り込むことができるのかということである。これに対して福永氏は、身体主体とは悲しむ主体、パトス的自我であり、したがってそれは仏教で煩悩と呼ぶものを含んだ人間的実存の有り様であり縁起に及ぶというよりも縁起の下にあると考えていることを述べた。また、ケアの倫理については、内世界的存在者への気遣いという形で身体主体が生きるという主体の根元的あり方の肯定的側面を示すに過ぎず、「正義の倫理」と呼ばれるものの公正や平等という原理に対しては弱点を露呈する裏側を持っているだろうとの回答を寄せた。
 全体討議に於ては、次のような疑問が数多く寄せられた。「なるほど、超越論的自我は確かに悲しむことはない。したがって、身体が情態性の現象の基礎であり、そこから共感可能性の原理であるということはわかる。しかし、ケアの倫理が語る母性原理という発想に関しては、ケアの提供者を女性に限定し、性差別を固定することにはなりはしないか。また関係性の重視ということでは、キェルケゴールの思想も俎上にのぼることになるが、関係性の重視ということをインデックスにし、それを母性原理に属するものとしてしまって良いのか」といった疑問である。またその他、「倫理が殊更に問題となるのは、共感できない人間をどうするのかということだ。共感不可能性をこそ問題にするべきではないのか」といった疑問、「仏教の縁起観では、ケアの倫理で語られているようなものよりも、もう一歩違うところで語られる。無明煩悩とは違うところに救いがある」との意見が寄せられた。これらの問いや意見に対し福永氏は、母性原理というものはあくまでもジェンダーとしての文化概念であり、戸籍上の性別のようなものではなく一人の男性の中にも女性的な母性原理が機能していると見るべきであるとした上で、ケアの倫理の語る母性原理は平等や公平という正義に関連した価値に対してやはり弱点があり、また我が子に対する献身の裏側に暗黒面(C.G.Jung)を併せ持つという母性原理の特徴にも注意を払うべきであるとの見解を述べた。