東日本大震災から2年が過ぎたが、原発事故の深刻な影響もあり、被災地の復興は順調に進んでいるとは言えない。復興には、暮らしの基盤である家族、および自然環境を含む地域社会の再生が不可欠である。一方、近年、日本各地で家族関係や地縁社会に大きな変化が生じつつあり、それが孤独死や自死、また葬儀の簡略化を生じさせている。とすれば、地域社会の再生という被災地復興の課題は、現在の日本社会全般にも共通する課題だと言える。宗教倫理が世俗倫理と異なるのは、単に生者のみならず死者も視野に入れるところにある。2013年度の本学会の研究テーマとして、宗教倫理の有するこの視座から、3.11以後、死生観はどのように変容したのかを問い、生者と死者との新たな共同性を模索しつつ再生される地域社会はどのようなものだろうか、これらの問題について理論および実践の両面から議論を深めていくことにしたい。
北村敏泰氏(中外日報特別編集委員、ジャーナリスト)
東日本大震災――宗教・宗教者は、この現代日本において、どのようにあるべきなのか?1年半に及ぶ被災地取材。空前の“苦”に直面した宗教者の取り組みを紹介するだけでなく、「なぜ彼らがそのような取り組みをするのか」という、大きな問いに挑む。
若松英輔氏(批評家・慶應義塾大学非常勤講師)
いま、この瞬間、新しい命が生まれおちているように、また、新たに「死者」が「生まれている」。死者とは、死に滅した者への呼称ではなく、死の彼方に新生し、生者に寄り添い協同する者の謂いである。震災は、死者の存在を闡明したともいえる。詩人、哲学者、芸術家、あるいは市井の人々の声に寄り添いながら、生者と死者の関係を考えてみたい。
イディリス・ダニシマズ 氏(同志社大学大学院 グローバル・スタディーズ研究科 助教)
知人やある有名人の突然の訃報によって感じさせられる死の現実性。若い、あるいは愛する親戚の一人の死によって心に残される「悔しさ」。自然災害によって「無差別に」失われたくさんの命に対して浮かび上がる疑問感。難病や高齢のためる死の近さによる恐怖感。様々な理由によって自らの命を絶つ人の「死の探求」。
死を生から切り離して考えたり、個々人の問題と思ったりすることは多いですが、上記のような様々な立場から見ると、死というものが人の生き方に及び、人間社会にまで影響することがわかります。それにもかかわらず、死への恐怖感のためか、生と死についてなかなか話しません。生と死に関する科学、哲学や宗教等様々な分野の人による膨大な文献があるにもかかわらず、死を他人事として思うことのせいか、死を論ずることは人気がありません。
本報告では、3.11後の被災地支援活動の際に得た体験にも言及しつつ、イスラームの観点から死と生を取り上げ、特に、死と死後の世界に関する認識が、個人と社会の生き方に如何に影響するかということについて考察します。
金子 昭 氏(天理大学おやさと研究所 教授)
沖仲仕の哲学者として知られるE・ホッファーは、「人間はすぐれて語り部である」と述べている。文学の言葉を通じてのみ語られ、説き起こすことのできる、独特な宗教倫理の世界がある。この報告では、浮浪や人夫などの遍歴を足かけ20年近く続けた詩人・高木護(1927年~)の作品世界を紹介しながら、“浮浪・人夫・野垂れ死”についての彼の語りの中に伺われる宗教倫理や死生観について共に考えてみたい。高木は言う、浮浪は人間になる「行」であり、人夫こそ人間の原形・本来の姿であり、最後が野垂れ死に終わったとしても、人間になる修行の結果であればそれもまた良し、と。ここに見えるのは、社会の底辺や無縁の中にあっても、人間という存在の尊厳があると訴える姿勢であり、我々に人間になる主体的な生き方への「覚悟」を示唆してくれるものである。
芦名定道氏(京都大学 教授)