宗教共同体や宗教者が公共圏にどのような仕方で参与するかという問題は、本学会における根本的テーマの一つであるが、このテーマは、ポスト世俗化時代と言われる今日、公共圏そのもののあり方から考察される必要がある。
世俗化論が盛んな時期に、世俗化とは「宗教全般の消滅」を意味するのか、それとも「宗教の私事化(見えない宗教)」にすぎないのかなどの議論があった。1979年にイランイスラーム革命が起こり、東西冷戦の終焉に伴い各地の宗教紛争が目立ち始めると、宗教の復興と言われるようになり、世俗化論は低迷し消滅した。「公共圏の宗教」は、宗教の私事化への異論として議論され始めた経緯もある。「世俗化」と同様に、「公共圏」や「公共圏の宗教」の概念についても、それが普遍的モデルなのか、キリスト教特有のモデルなのか、といった議論が分かれている。
「公共圏」とは公的な事柄について多くの人々が互いに平等な立場で自由に議論する社会空間であり、公共圏の成立とともに近代市民社会が成立したというのが、私たちの共通の理解であろう。日本は近代化に成功し議会民主主義を確立しているが、公共圏が未発達であるという指摘も以前からあり、そのときに引き合いにだされるのが「世間」である。「世間」について、井上忠司は「ナカマウチ」から「アカのタニン」へと広がる同心円的な重層構造をもつものとして説明し、阿部謹也はヨーロッパ中世において支配的であった非合理的な社会と重ね合わせつつ、個人が集団のなかに埋没した社会空間を意味するものとして説明しているが、日本の生活に溶融した宗教文化や仏教の出世間との関係など、宗教の問題連関から考察されるべき点は多く残されている。
昨年の研究会と夏季研修会で議論した結果、公共圏という考え方も用語も日本人にはなじみがないことを改めて認識させられた。したがって今年度の課題は、世間の意味をより綿密に問い、同時に「宗教と公共圏」のテーマで考察されている問題が何かを問い直し、その問題が日本ではどう扱われているのかを考える。端的に言えば、「世間」を生きてきた日本人が「公共圏」をどう捉えるか、宗教の観点から問い直すことを2022年度の研究テー マとして設定し、宗教の社会的実践についてのより深い考察へとつなげたい。会員の積極的な発表と議論参加を期待したい。
今年度の夏季研修会も、昨年度と同様、新型コロナウイルスの感染拡大のために、オンラインで開催された。特に今回の夏季研修会では、神道研究者の櫻井治男教授を講師にお招きして、神道の視点から、地域社会における神社と「公共圏」および「世間」の関わりを捉えなおすことが企画された。櫻井教授の講演の後、小原克博教授がコメントをおこない、その後、全ての参加者とともに意義深い全体討議をおこなった。
櫻井治男教授の講演
櫻井教授はまず、2022年度研究プロジェクトにおける次の3つのポイントを挙げることで、講演の論点を明らかにした。①宗教共同体や宗教者と公共圏の関わりは、実際に参加する/参加可能な「社会空間」の在り方と自己の在り方を問う必要がある。②「世間」とは身近な生活感覚としての意味と抽象化された意味のつながりを意味する。「生活慣習としての宗教」(澤井)と「世間」の関係性は、「世間」の一部なのか、あるいは基層なのか、それとも流動的関係なのかを明らかにする必要がある。③「世間」を生きてきた日本人のあいだに、「公共圏」の範囲の捉え方の違い、社会的実践に係る立場や背景・価値観などの要件の違いが見られる。たとえば、「新しい公共」という考え方が内閣府HPに掲載されているが、それは共助の精神による活動を意味する。以上、3つのポイントを挙げた。そのうえで櫻井教授は、これまで長年のあいだ、フィールドワークをおこなってきた地域神社の観点から、近代の地域神社/神社の祭祀祭礼/地域の祭り行事/神道と福祉文化に関するデータをふまえて、講演をおこなった。ちなみに、同教授の生活の場は伊勢市桜木町、すなわち、外宮(山田)と内宮(宇治)の間の「古市」という街道の町場にあるが、そこでは、町内会/老人会・婦人会・子供会の活動が停滞状況にあるとも述べた。
近代の神社制度における「官」と「私」
さて、櫻井教授はまず、近代の神社制度を「官」と「私」の視点から捉えなおした。「神社」は「国家ノ宗祀」として意味づけられ、神社の実態との齟齬が見られたという。神社の神職が世間の一員でなくなる神社も発生した。「神宮」(伊勢神宮)は「皇祖」(天皇家の祖先神)を祭る神社であり、天皇以外は「私」に当たる。また官社(官国幣社)に対して、諸社(民社:府県社・郷社・村社・無格社)が存在することになった。前者が官費で維持されたのに対して、後者は人民によって維持された。「国家ノ宗祀」であるために神社明細帳が作成され、この公簿に登録されたものが公認の「神社」とみなされた。
次に櫻井教授は近代の神社制度を官祭と私祭の区分から捉えなおした。たとえば、八坂神社(京都市、官幣大社)では、官祭すなわち祈年祭・新嘗祭・例祭(年一度)・元始祭・天長節祭・6月12月大祓がおこなわれ、その他の祭祀は、「一社ノ私祭」としておこなわれた。祇園祭における官と私については、官祭が6月15日(例祭/勅使奉幣)に、氏子私祭は7月17日・24日(神輿渡御・還幸)におこなわれた。「官祭」が公式性・権威性を特徴としたのに対して、氏子の「生活感覚」としての「私祭」は開放性・遊楽性を特徴としており、世間の感覚的な「お祭り」は行政的に「私祭」として位置づけられたと述べた。
さらに、招魂社における「官」と「私」については、官祭招魂社と私祭招魂社および官祭祭神と私祭祭神という区分があるという。明治8年までに創建の招魂社と祭神は「官祭」と称し、以降は「私祭」と区分されている。官とは公的待遇を受ける神社・祭神であるが、官祭招魂社には私祭祭神も祭っている。地域内の種々な慰霊碑(忠魂碑)/都道府県単位の護国神社/別格官幣社としての靖国神社では、同心円状の「慰霊」をおこなっているという。「慰霊」と「公共圏」・「世間」の関わりに注目すると、戦争・災害・大事故などで、同時期に多くの人々が亡くなる事態が発生すると、「公共圏」における「慰霊」の意味が問われ、「世間」では、具体的な「慰霊」的行為のあり方が問われる。招魂社・靖国神社の問題は、「公共圏」と「世間」とのあいだで揺れる課題であり、さらにムラとしての「慰霊」的行為は盆行事と融合したりしていると櫻井教授は述べた。
地域神社と世間
さらに櫻井教授は、地域神社と「世間」の関わりを次のように述べた。まず、戦後、「神社界」は組織化され、昭和21年(1946)2月、宗教法人・神社本庁が設立された。戦後間もない頃から昭和30年代頃まで、宗教法人化した神社の「教化」活動意識の高まりによって、社会活動が活発になった。その後、神社界の組織的活動は皇室・国家・靖国神社・神宮制度等の問題へ比重が向けられ、地域的な課題は個別の神社の対応に委ねられたという。組織として掲げる理念「敬神生活の綱領」(昭和31年)も制定された。神社も複雑で、旧官社系神社/旧民社系神社(氏子区域の広い神社=府県社・郷社クラス/氏子区域が比較的狭い神社=村社クラス)/神社明細書等の公簿に登録(宗教法人)されていないが、地域の共同奉斎・管理となっている神社/氏神型神社・崇敬型神社と区分されるが、氏神型が地域に密着した神社(地域神社)といえる。
また、地域住民の地域神社への関わり方については、以下のとおりであると櫻井教授は述べた。まず、①様々な「世間」の存在とその重層構造に注目すると、地域内に複数の神社があっても、ムラの中心的・公的な奉斎神社は単数として存在する(「お宮」と呼ばれる神社)。その枠組みのなかで、個人・特定集団の信仰対象(稲荷など)が存在し、個人ごとに異なる「世間」の集合、あるいは「世間」が個々に分化している。②贈与・互酬の関係(「お互いさま、もちつもたれつ、もらったら必ず返すの関係」)に注目すると、神社への物品寄贈、植樹、施設(鳥居・瑞垣・手水)奉納などの行為は「地域へのお返し」を意味する。個人名ではなく「氏子中」、厄年仲間、同窓会、出郷者仲間などのグループでの寄贈が慣習化している。個人名の場合は、出郷者で成功者などである。➂長幼の序の尊重(「年上か年下か、ということがものすごく大切」)に注目すると、神社の祭礼組織には、年齢階梯が重視される世代(青年組)はあるが、子供・青年・壮年・老人といった世代での役割や分担を決めている。ムラの諸役を経て年長としての尊敬が保障される。それは単に年齢差による尊重ではなく、祭礼には子供や老人を「神」の位置とする、日常ルールの逆転が見られる。また、祭祀執行の輪番制(年番)をとる方式がある(当屋制)。この場合、年齢や経験に関係なく、だれもが行える(サポートもうまくなされる)、等しく責任を果たせる仕組みとなっている。当番が外される場合は「不幸事」や「妊婦」の家が理由となる。こうした当屋制は、今日では希少な事例ではある、と櫻井教授は述べた。
また、④共通の時間意識、伝統の共有に注目するとき、神社祭礼における繰り返しの時間、日常の時間と非日常の時間の交代経験/非日常の体験を共有することで、「世間」を安定させる。さらに、⑤神秘性については、地域の生業形態にもよるが、農村部では年中行事や儀式を行うこと、漁業関係者では呪術的な行為に関わる領域を大切にすることが多いという。例えば、「海女」の信仰における様相を窺うと、日々の神仏への拝礼、出漁時の信仰的所作など、これらをこなすことで自然に向き合うことがなされる。自らの危険が他者の危険につながることがあり、先人から伝えられていることをその通りに行うことで、安全が守られるとの意識は強い。守ることを自ら選んでいるところもあるという。⑥集団の優先に注目すると、農村や漁村では、水利権・漁業権という既得の権益を個々人が有している。ところが、それをムラの範囲外(他者、コントロールの埒外)へ譲渡・売却はできないようにルール化し、そのようなことをすれば、「世間」の常識破りとされ、批判・制裁の対象、あるいは排除の対象となる。そうしたことが起こらないように自らも律するが、それはムラの構成員の共同利益を損なうことにつながるからで、「個人が生きる」ための前提に「ムラが生きるため」という論理や意識の優先性が見られると櫻井教授は述べた。
最後に、講演のまとめとして、櫻井教授は「世間」の概念を議論するとき、それへの対置表現や概念、およびその特徴を併せて捉えることの大切さを説いた。ただ、「慰霊」のような問題は、宗教との関わりにおいて、「世間」の意識とともに「社会空間」の問題として高めた領域で議論することによって、いっそう理解が深まると思われると述べて、多岐にわたる内容の講演を終えた。
コメントと全体討議
櫻井教授の講演に引き続き、小原教授がコメントをおこなった。小原教授はまず、2012年に皇學館大學で開催された日本宗教学会学術大会・公開シンポジウムの討議テーマ「試される宗教の公益」に触れ、当時も宗教の公益性や公共性が問われていたことを振り返った。また櫻井教授が講演のなかで説明したように、明治以降、神社が国家との関係のなかで変化してきたという事実があるが、こうした事実を今日、私たちは共有すべきであるとも述べた。さらに小原教授は戦後、神社が関わる政教分離の事例として、津市の地鎮祭訴訟を取り上げ、最高裁はその地鎮祭が「世間」の習俗の一部であるので違憲ではないと判断した。また現在、安部元首相の国葬をめぐって、国家が「慰霊」に関わることの是非が問われているが、私たちは少なくとも、宗教がもつ「慰霊」的行為が国家の中へ組み込まれてきた近代史の過程を把握しておく必要があるとも述べた。
そのうえで小原教授は、櫻井教授に対して、次の5つの質問をおこなうかたちでコメントをおこなった。まず、神道において、官社と民社、あるいは官祭と私祭の区別を厳密におこなってきた理由について尋ねた。その問いに対して櫻井教授は、明治になって国家の基本方針である祭政一致の中へ、神社が取り込まれていった事実を挙げて、その当時、神道の「国教」的な役割をめざすという考え方に対して、神社の実態はそうではなかった。そうした状況のなかで、試行錯誤しながら、その制度が確立されていったと述べた。
小原教授は第2の質問として、官社と民社の区別と関連して、明治になって、上からの通達によって、官社のほうが民社より格上というように、上下の区別が強制的になされていったが、その点について、当時の神社界では、地域神社の宮司から異議申し立てはなかったのかどうかと質問した。この質問に対して、櫻井教授は明治から大正にかけて神社の合併がおこなわれ、上から神社の数を減らす方針が打ち出された。神職のなかには、それに反対した人々もいたが、南方熊楠のように論陣を張った人は少なかったと答えた。
また第3の質問として、当時、神道では神社の祭神を明確にしようとしたことについて、小原教授は地域住民には、神社の祭神はどうでもよかったと思われるが、どうして祭神を明確にしようとしたのかについて質問した。それに対して櫻井教授は、当時の中央的な神社観であり、祭神を「神の名前」とし、中には記紀神話に登場する神々を神社の祭神に考証・比定したり、天皇につながる神々との関係を意識したこともあったと言える。神社の祭神名は、近世の神道思想の流れにおいて、日本古典に登場する神々と結びつけたり、また本居宣長は無理な考証に批判的であったが、国学の古典研究によって関心が高まったことも関係する。たとえば、伊勢神宮についても、内宮の祭神は天照大神で変わらなかったが、外宮の祭神である豊受大神を国常立尊と主張するような解釈がなされていて、それは明治になってから是正されたと回答した。さらに小原教授は、第4の質問として地域住民と神社の関係について尋ねた。現在、地域共同体は少子高齢化のために、その自治会が機能不全に陥っているところが多い。かつては寺や神社が中心になって地域をまとめていたが、櫻井教授がフィールドワークした地域では、神社がうまく機能しているのかについて質問した。それに対して櫻井教授は、現在では少子高齢化のために、神社をいかにたたむかが問題にもなっている地域も多いと述べた。そうした背景には、自治会が機能不全になっていることがあるが、それは全国的な傾向であるという。
最後に小原教授は、櫻井教授の講演内容と直接、関係はないが、確認したい点があると述べて、第5の質問をおこなった。それは神社界において、「神道」の用語が一般的に用いられるようになったのは明治以後であると言われているが、それに間違いがないのかどうかという質問であった。その質問に対して櫻井教授は、明治3~8年に大教宣布運動という国民教化運動があったが、それは神仏合同であった。そのときは「大教」と呼ばれた。行政上、宗教としての「神道」と「神社」の区分がなされてくるのは、明治中期以降であったと述べた。さらに明治以前に神社・神職を支配していたのは吉田家とか白川家で、「唯一神道」「伯家神道」の呼称もあったが、「神祇道」と呼ばれていた。民間の宗教者のなかに、「神道者」(しんとうもの)とよばれる人々もいて、お祓いをして廻っていた。明治以前の書物のなかには、すでに「神道」の語を用いたものもあったと回答した。
そのうえで櫻井教授は、政教分離の問題についても、津市の地鎮祭は習俗的な行為として位置づけて判断された。ところが、それは公共圏における宗教的行為でもあるので、そのことは日本宗教に固有の問題として、今後も継続的に検討していく必要があると述べた。
その後、澤井義次教授の司会のもと、全体討議に入った。まず、櫻井教授が提示した政教分離の問題との関連において、神道の根本は「慰霊」であるのかとの問いが提示された。また、津市の地鎮祭は最高裁では習俗とみなされたが、最高裁のその判断は宗教的行為を実践している神道としては異論があったのではないかという質問が出た。その問いに対して櫻井教授は、「慰霊」は亡くなった人の魂を慰めるという特異なものとして発展してきたが、それほど古くから神道で一般化していた行為ではないと答えた。地域の人の「慰霊」はむしろ寺の役割であったのではなかろうかと述べた。さらに神話には、魂を鎮めるという「鎮魂」の語が出てくる。この語には魂を活性化するという意味もある。「祝詞」には、魂が鎮まることを願うのが一つの作法であると述べたうえで、櫻井教授は津市の地鎮祭の判決について、神道の中では、批判的に捉える人もあったが、それは世俗の裁判の中のこととして認識されたと答えた。さらに櫻井教授は「慰霊」となると、共同性と関わってくるが、ここに神道の特徴があるとも述べた。
また、戦後になって、神社連盟案か神社教案のどちらかを選択する際、神社連盟案を選んだとのことであるが、そのとき、どのような議論があったのかという質問が出された。その質問に対して櫻井教授は、まず、GHQの占領下で至急、決断を求められたという背景があったと述べた。神社が国家の手から離れ、各神社は宗教法人法により個別に法人となるが、その宗教法人を包括する組織として神社本庁が結成されたが、神社連盟案はそれらの神社の連合という考え方であった。一方、神社教案は神宮神社を奉斎する宗教団体として、一つの教義を打ち立てるというものであった。それらのどちらを選ぶかが議論されて、神社神道は固定的・成文的な教義が無いのが特色であり、それぞれの神社の独立性を重んじるべきという考え方に基づき、神社連盟案が選択されたと櫻井教授は返答した。
さらに明治4年以降、「国家ノ宗祀」というように、「祭祀」ではなく「宗祀」の語が用いられたが、その語は特別な意味をもっていたのかとの質問が提示された。その質問に対して櫻井教授は、「祭祀」は実際の儀式行事を意味するが、「宗祀」といえば、それは国家が主体として尊び祭祀を営む対象としての意味づけがあったと述べた。また最後に、神社は氏子をもっており、地域共同体のもので公共的なものであるが、一方、寺は檀家をもってはいるが、寺に関わることは「公」ではなく、むしろ「私」に関わるものと言えるのではなかろうかとの解釈が提示された。その解釈に関して櫻井教授は、「氏子」の語は近代以前にも見られるが、いわゆる氏子制度は近代になって再編されたものだと付言した。
以上のように全体討議においても、参加者の全ては地域神社と「世間」の関わりについて、櫻井教授から適確な教示を得ることによって、いっそう理解を深めることができた。まさに充実した内容のオンライン夏季研修会であった。
澤井氏は、日本の宗教性と「世間」の関わりを意味論的視座から検討することで、「世間」のおもな特徴を分析したうえで、「世間」が日本的「公共性」とも呼ぶことができること、さらに「世間」と「公共圏」には意味のずれが見られることを明らかにした。
まず、澤井氏は現代日本の宗教伝統において、「生活慣習としての宗教」と「個人の宗教的信仰」(信仰としての宗教)が意味論的に重なり合っており、宗教の多元的・重層的な意味構造を構成していると述べた。特に「生活慣習としての宗教」は、ふだん人々によって「宗教」としてほとんど自覚されていないが、それは長い歴史の伝統の中で形成され、日本文化の基層を成してきたという。さらに「生活慣習としての宗教」は、澤井氏によれば、「世間」の構成要素の一つを成しており、個人がつくったり、変えたりすることはできないものである。「世間」とは人々に「生活の指針」を与え、「集団で暮らす場合の制約」を課している。日本文化論で知られる阿部謹也がハーバーマスの「公共性」の議論をふまえて、「公共性としての「世間」」と呼んだように、「世間」は日本的「公共性」と表現することもできると澤井氏は強調した。
ところで、明治10年頃、societyの翻訳語として「社会」の語が定められると、「世間」という語は公的な舞台から消えていったという。翻訳家の柳父章も指摘するように、「社会」の意味は抽象的で、「世間」の意味は具体的である。「世間」の語は「社会」と違って、日本語として千年以上の歴史をもつ語感の豊かな日常語である。「世間」は「生活慣習としての宗教」の具体的なコンテクストを成しているが、「公共圏」は私たちの主体性にもとづく「個人の宗教的信仰」を前提とした公共性の圏域を示している。したがって、「公共圏」と「世間」の意味は、知的レベルでは理論的に重なっているが、翻訳語の「公共圏」および「公共性」は、「世間」という日本の具体的な状況を適確に表現できず、両者には意味のずれが存在すると指摘して、研究発表を終えた。
澤井氏の研究発表を受けて、コメンテーターの佐々木氏は、「世間」と「社会」の意味の差異に注目しながらコメントした。まず、佐々木氏は「世間」が「刷り込み共同体」であると捉え、その中で人々は所与の価値観や世界観を与えられてきたと述べた。宗教も「世間」の一部であり、日常生活の一部を成しているという。一方、「社会」とは「利得にもとづき、権利を主張する場」であると述べた。今日の状況では、テレビや新聞が「社会」に当たり、ネットが「世間」に当たるとも言い、現在、一般的に言われる「私たち」という言葉は、「世間」の代替語として用いられていると言うことができるとも述べた。
その後の全体討議は、研究プロジェクト委員長の小田氏の司会のもと、研究テーマについて活発な議論がなされた。まず、今回の研究発表をとおして、「公共圏」と「世間」の意味とその差異が明らかになったとのコメントが述べられた。また日本仏教において、法然や親鸞が浄土教の教えを説いたことで、それ以前の「世間」のものの見方を打破しようとしたとの解釈も提示された。さらに澤井氏が指摘した日本の宗教性と「世間」の関わりに関する意味論的分析は、日本文化以外にも当てはまるのではないかとの問いが提起された。その問いに対して、日本の「世間」では、地縁・血縁の関係によって支えられてきたが、一方、西洋のキリスト教社会では、「世間」が究極的に一神教的な教義によって縛られていた。このように宗教と「世間」の関わりについて、差異が存在するのではなかろうかとの応答が提示された。さらに日本的「公共性」では、「個人」が「世間」に吞み込まれているきらいがあり、日本社会には、厳密な意味で「個人」が存在しないと言えるかもしれないとの意見も提示された。
ところで、日本文化は「言葉で言わなくても分かり合える世界」であり、「公共圏」について議論することも難しいし、「公共圏」を作り上げることも難しいのでは、とのコメントが提示された。また今日、「世間」の変容スピードが速いこともあって、世代間の断絶が生起していると言われるが、そうした状況であっても、「世間」は姿を変えながら存在しているとの意見も述べられた。さらに「世間」における神道や仏教などの宗教の違いは、明治以後に形成されたものであり、明治以前には、その違いがあまりなかったのでは、との意見も提起された。
最後に、澤井氏は全体討議における充実した議論に触れながら、日本の精神風土では、意味世界の二重性が見られるが、人々の心は二重の意味世界のあいだを常に揺れ動いてきたと述べた。またコメンテーターの佐々木氏は、澤井氏の補足説明を受けて、インドのカースト社会は従来「世間」であったが、カースト差別を否定する「社会」へと変化しつつある例を挙げて、さらなる議論の展開に言及し、充実した内容の活発な全体討議を終えた。
第2回研究会では、第1回研究会での討議をふまえて、本年度の研究テーマについて、小田氏の司会のもと、参加者のあいだで活発な自由討議がおこなわれた。主要な論点は、「公共圏」および「公共性」とはなにか、また宗教と「公共圏」および「公共性」との関わりについてであった。ここに、おもな討議内容を簡潔にまとめておきたい。
「公共圏」および「公共性」とはなにか
第1回研究会を振り返って、まず、「公共圏」と「世間」の意味理解に関する発言があった。つまり、「公共圏」とは、個人が他者と対等に討議し合う空間であるのに対して、「世間」は個人よりも集団の利害が優先される空間である。そこでは、因襲化した宗教実践も伝統的におこなわれてきた。こうした状況は、日本ばかりでなく海外にも見られ、「公共圏」と「世間」は重なり合いながら存在してきたのではなかろうかとの見解が提示された。
つぎに「公共性」や「公共圏」の語は、確かに近代の概念ではあるが、古代以後の脈絡においても、「公共」の概念を捉えなおすことが大切なのではないかとの意見が述べられた。しかし、「公共圏」の概念は近代になって、自由と平等の場を前提としたものであり、国家と民衆のあいだに位置づけられる。したがって、近代以前にまで視野を広げると、国家が人々の自由を容認していなければ、「公共圏」は成り立たないのではないかとの見解も提示された。
もう一つ別の意見として、「公共圏」は固定的なものではなく、その都度生み出されて、民衆が同じ志をもって共同で実践することを可能にする場であるとの理解が述べられ、「世間」を日本的な「公共性」や「公共圏」であると捉えなおすことを支持する発言もあった。ただ、日本的な「公共性」が個人にとって抑圧的に働いてきたことはよく認識すべきであるとのコメントが述べられた。
さらに、民主主義の土台は「公共圏」であり、それは理念的なものである。したがって、「公共圏」における宗教は、依然として理念的であるとの意見も提示された。それに対して、「世間」とは具体的に私たちが知らないうちに巻き込まれて生きている場である。明治以後、「世間」を「社会」として表現するようになったが、「世間」のなかに「公共圏」を形成していくことが、現代日本社会の課題であるとの意見も述べられた。
言うまでもなく、「公共性」や「公共圏」の語は翻訳語であり、いまだ抽象的な意味あいが強い。人々によってその語の意味理解も異なっている。「公共性」の概念については、斎藤純一(『公共性』岩波書店)がオフィシャル、コモン、オープンという3つの側面を挙げているように、これら3つの側面はそれぞれが対抗し合っている。このことは「公共性」や「公共圏」が一筋縄では理解できないことを示唆しているとの指摘がなされた。
宗教と「公共圏」および「公共性」との関わり
もう一つの論点は、宗教と「公共圏」および「公共性」との関わりについてであった。この点については、インド社会におけるアンベードカルの新仏教運動が具体例の一つとして取り上げられた。この仏教復興運動はアンタッチャブル(不可触民)を「世間」から「公共圏」へもたらそうとした試みであったと言える。アンベードカルの新仏教運動は仏教の力を借りた「公共圏」獲得の運動であったと捉えることもできるとの指摘がなされた。ただし、現代インド社会では、アンベードカルの新仏教運動はアンタッチャブルのあいだに多くの新仏教への改宗者を生み出したが、ヒンドゥー社会では、それが「一つのカースト」のようにみなされてきた事実がある。私たちはそのことはよく認識しておく必要があるとの見解も提示された。
ともあれ、「公共性」は教育に依らなければ育たない。(逆に言えば、「世間」は特別な教育がなくとも存続するという性格をもつ。)したがって、「世間」のなかに、いかに「公共性」を形成していくのかが今後の課題であるとの意見も提示された。この点と連関して、現在、ロシア正教会はウクライナ侵攻を続けるロシアを全面的に後押ししているが、こうした状況は、国家と「公共圏」の関係を問いかけているし、日本の戦前の宗教のあり方と共通するものがあるように思われるとの指摘もなされた。
翻訳語としての「公共性」は場所や時代に応じて変わっていく。今日、伝統的に存在してきた「世間」は次第に壊れてきており、その内容も変わっていくと言われるが、慎重に検討すべきだろう。たとえば、医の倫理と「世間」の関わりにおいて、現代では、患者本人に病の告知をおこない、本人が自分の治療方法を選択でき、個人の意見を尊重するという流れになっている。ところが、個人の意思確認ができない状況では、個人の意思が明瞭であるにもかかわらず、家族や親族が本人のためにとの配慮から、異なる判断をする場合もあるという。「世間」との関わりから捉えなおすとき、医療現場はリアルであり、依然としてさまざまなケースが見られるという。こうした、いわば現場の声も提示された。
以上のように、研究会での自由討議をとおして明らかになったことは、まず、翻訳語としての「公共圏」および「公共性」の語の意味内容がいまだ抽象的で多義的であること、また、どのような意味で「公共圏」および「公共性」を論じるのかによって、見解も異なってくるということである。さらに、「公共圏」と「世間」との差異をいっそう明らかにしながら、現代社会における宗教の意義を探究していくことの重要性をあらためて確認することができた。
福嶋氏の研究発表は、キリスト教神学と倫理学の視点から、現代の危機に対してキリスト教がいかに対峙できるのかという問題意識にもとづき、ヤスパースが言う「枢軸時代」(Achsenzeit)論を取り上げ、彼が待望していた「第二の枢軸時代」の可能性を哲学的・神学的に考察するものであった。ヤスパースが言う「枢軸時代」とは、紀元前500年頃を中心とした前後数百年間に、伝統的な宗教や思想が中国、インド、中東、西洋において、ほぼ同時に現われた時期のことを指す。ヤスパースは「枢軸時代」を人類史の中心に据えて、人類が4回の刷新―先史時代・古代高度文化・枢軸時代・科学技術時代―を経て、統一した「一つの世界」に向かっていると考えた。
福嶋氏はまず、ヤン・アスマン『枢軸時代』(Jan Assmann, Achsenzeit, 2018)におもに依拠しながら、「枢軸時代」研究史をヤスパース以前・ヤスパース自身・ヤスパース以後の三段階に分類した。また仮説として、ヤスパースの「枢軸時代」に、国家と資本という二重の権力への対抗社会の形成、いわば「第三の力」の起源と原型を見出し、そこに「枢軸時代」の現代的意義すなわち「新たな枢軸時代」の可能性を捉えることを試みた。ヤスパースはキリスト教中心主義を脱しようとしたが、彼の「枢軸時代」概念はキリスト教的「啓示」概念の変形としても捉えられると福嶋氏は述べた。
アスマンは『枢軸時代』の中で、18世紀のオリエント研究者のアンクティユ‐デュペロンを「枢軸時代」論の創始者とみなし、アンクティユに始まりヤスパースを経て宗教社会学者ロバート・ベラーにまで至る、約二世紀半におよぶ「枢軸時代」研究史を辿っている。「枢軸時代」研究は多様であるが、そのことはヤスパースの「枢軸時代」概念それ自体が孕む二義性、すなわち史実と理念の両義性に起因しており、さらに研究者の政治的立ち位置やイデオロギーとも無縁ではない。さらにヤスパースからアスマンに至る「枢軸時代」論には、資本主義への根底的批判が希薄であるように思われるが、「解放の神学」などは現代の危機的状況の中で、「枢軸時代」に新たな光を投じていると福嶋氏は述べた。さらにヤスパースが示唆した「新たな枢軸時代」は、自由、平等、公正、共感、純粋贈与という理念を持ち、「剣を鋤に打ち直す」平和創造として、古代の枢軸時代と全く異なる実践となるともいう。最後に、「枢軸時代」を起源とする宗教が今後も普遍的な意義をもつことができるのは、それが真に自由で平等で公正な社会へと向けて、具体的な歩みを続けるかぎりにおいてであると述べて、研究発表を終えた。
その後、研究プロジェクト委員の澤井氏の司会で、氣多雅子氏のコメントと全体討議がおこなわれた。まず、氣多氏はヤスパースの「枢軸時代」概念において、史実だけでなく理念を持ち込んだ歴史理解がどれだけ説得力をもつのか、あるいは「枢軸時代」を歴史叙述とすれば、それは空想的なのではなかろうかという問いを提示した。「枢軸時代」の視点から歴史をとらえるとき、ヤスパースは人類が「唯一の起原と一つの目標」をもつという一種の「信仰」を語ったが、歴史の起源と目標を設定することで、キリスト教的な視点が強く出てくる。こうした視点は仏教にはないとのコメントを提示した。それに対して福嶋氏は、今日、世界史を語ることが孕む問題性、および、ヤスパース自身が「枢軸時代」概念の理念性と歴史性という緊張関係を明らかにし切れなかったことを認めた。しかし同時に、その概念が奥深さと可能性をもっており、その概念の可能性をハーバーマスやベラーなどが引き継いで探究してきたと述べた。ヤスパースが言う「信仰」の語は確かにキリスト教的であるが、キリスト教からはみ出ているとも応答した。アスマンはヤスパースの「信仰」をカントの表現を用いて「統制的理念」と表現したが、それは自由とか平等、黄金律に表現される愛などの理念によって特徴づけられると述べた。さらに氣多氏は、ヤスパースの示唆した「新たな枢軸時代」が自由、平等、公正、共感、純粋贈与という理念をもつとの福嶋氏の表現について、それは西洋的価値観を示すのでは、との意見を述べた。それに対して福嶋氏は、黄金律や純粋贈与は世界中にみられるもので、必ずしも西洋的な価値観に限定されないと応答した。
その後、全体討議がおこなわれた。最初に、「枢軸時代」の概念が成り立つには、「歴史とはなにか」の把握が必要であるとの意見が提示された。その意見に対して福嶋氏は、「枢軸時代」に伝統的な宗教や思想が現れたことは史実として確定できるが、その史実について、ベラーやアイゼンシュタットなどは詳論したと述べた。ただ、彼らに足りなかった点は、思想形成に貨幣経済が大きな影響を与えたことをよく認識していなかったことだと付言した。さらにヤスパースが歴史の「目標」を語ったとき、それは理念を語ることになったが、ハーバーマスもベラーも「遠き導きとしての理念」を語ってきたとも述べた。歴史をこのように捉えると、ある種の発展史観のようにみえるとのコメントが提示されたが、それに対して福嶋氏は、ヤスパースは終末すなわち地球の絶滅をも意識していたと述べた。その点に連関して、仏教にも末法思想のように終末論的な思想が存在するとの意見も提示された。
さらに時間論的にみれば、ヤスパースの「枢軸時代」は西洋的な直線的時間論がその基盤にあるが、そこでは東洋的な円環的時間論が落ちこぼれている。ベラーの5段階から成る宗教進化論もキリスト教的な発想にもとづくもので、東洋的な時間論には受け入れにくいのではないかとのコメントも提示された。この点について福嶋氏は、ヤスパースもキリスト教を否定しているが、依然としてその枠組内に留まっていたことは確かだと返答した。ともあれ、「枢軸時代」に関する議論をインドや中国の研究者がおこなうとき、従来の研究とは異なる研究成果が出てくる可能性があることも示唆された。
最後に、今年度の研究テーマである「公共性」や「公共圏」との連関性については、ハーバーマスがヤスパースの「枢軸時代」をふまえて思索を展開したことを考慮するとき、ハーバーマスのいう「公共圏」は自由、平等、公正の諸価値によって形成される。この点を考えるとき、ヤスパースの「枢軸時代」論をハーバーマスの「公共性」論と比較検討することも意義深いことが確認されて、充実した内容の全体討議を終えた。
小原氏はまず、「世間」とは日本社会に固有の事情(人間関係など)を反映しているが、それと類似した諸事情は日本以外の社会にも見られる。宗教は各地域や各時代に固有の課題を際立たせる役割を果たしてきたと述べた。そのうえで、小原氏は阿部謹也やハーバーマスなどによって議論される「世間」や「公共圏」をめぐる論点を整理した。阿部によれば、個人は「世間」に対して、受け身の立場にたつことがほとんどであり、個人の行動を最終的に判定して裁くのは「世間」である。「世間」はこれまで排他的(exclusive)で差別的な構造をもつと同時に、人間も動植物もともに生きる世界として包摂的(inclusive)な特徴も併せ持ってきた。また「世間」は「規律と罰則」の構造をもってきたが、そこには同調圧力が高まる傾向が強いという。さらにハーバーマスによれば、リベラルな国家では、信仰をもつ市民は宗教的信念と世俗的信念のあいだで、一種の均衡を生み出す義務があるという。さらにバトラーの議論を援用しながら、小原氏は「共通(コモン)でないもの」があるからこそ、真に固有の差異が生まれると述べ、他者性を倫理の基盤に置く倫理的関係性を構築することの意義を強調した。
次に小原氏は、近代日本の「世間」とキリスト教の関わりについて論じた。井上哲次郎は内村鑑三の不敬事件およびキリスト教を批判したが、そのおもな論点は「世間」(拡大すれば「国家」)から逸脱しないかぎり、信教の自由が認められるというものであった。イエスは「脱世間」(脱家族的秩序)を説いたが、それは家父長的な家族から人々を脱出させる力をもっていた。それは既存の社会秩序への挑戦であった。さらに小原氏は公共圏をめぐる論争として、欧米や日本における政教分離論争やイスラーム主義運動についても論じた。西洋では、世俗主義や政教分離(多様性に対する政治的対応)の議論が中心的であるが、日本では政教分離の境界が流動化するときがある。イスラーム主義運動は部族主義の「世間」から信仰共同体の「ウンマ」への流れのなかで把握できるが、それはインドのカースト制度の「世間」から、それを否定する「社会」への流れに対応しているという。
さらに小原氏は「公共圏」と「公共性」を再解釈する手がかりを述べるとともに、「世間」の未来のかたちを示唆した。まず「不在者の倫理」に触れた。近代的な枠組みを批判し、過剰に人間中心的でも現在世代的でもない倫理規範を提示するためには、死者との対話や未来世代への責任意識が欠かせないという。過去および未来における不在者を記憶・想像することは、現在世代の私たちに具体的な倫理的責任を喚起させるという。また今日、移民の大量流入後のヨーロッパでは、複数の「世間」がせめぎ合っているが、そこには外国人労働者の増加による「世間」の多元化が見られるという。さらに、現代のオンライン時代には、「世間」の構成要素として「フィルターバブル」とその集合が大量に発生すると考えられるが、それは「オンライン上の世間」になっていくとも述べた。小原氏はこうした「世間」の変容を例示しながら、示唆に富む研究発表を終えた。
コメントと全体討議
その後、研究プロジェクト委員長の小田氏の司会のもと、コメントと全体討議がおこなわれた。まず、コメンテーターの宮本氏は、阿部がヨーロッパには「世間」は存在しないと言ったが、必ずしもそのようには言えないので、阿部の「世間」論を相対化する必要があると述べた。また、日本の「世間」では、人間は動植物と共に生きており、先祖なども含まれるものである。「世間」は確かに排他的(exclusive)ではあるが、それと同時に包摂的(inclusive)でもあると論じた。またイエスの「脱世間」の教えは「イエスの方舟」事件を想起させる。その事件は当時、「世間」でバッシングされたが、それは「世間」が異質なものに敏感に反応することを示唆していると述べた。ところで、バトラーはコモンからはみ出されたものを包摂するような倫理の重要性を説いたが、「世間」では、共感(sympathy)の感情の対象は限定的である。一方、教祖がもっている「脱世間」的な力は「世間」解体の力ともなり、それが宗教運動となり教団化していく。ところが、教団それ自体が「世間」になっていくというジレンマがあるとコメントした。このコメントに対して、小原氏はこのジレンマを超えて、宗教内でいかに内的刷新がなされるかが宗教の課題であると返答した。
また宮本氏は、イスラームやヒンドゥー教などの社会では、「公共性」や「世間」がせめぎ合っているが、宗教がいかなる立ち位置にあるのかを分析することによって、「公共性」と「世間」の多様な関わりかたが見えてくると述べた。さらに宮本氏は、小原氏が時間の都合で説明できなかった点、すなわち、「宗教のなかに閉じ込められてきた公共性を解放する」ことの意味に関する説明を要望してコメントを終えた。小原氏はその要望に対して、宗教は動植物や死者とのつながりを含めて、現在世代を超えた「公共性」のポテンシャルをもっているので、そのことを積極的に発言していくことが重要であると述べた。ちなみに、「共感」能力はポジティブな場合ばかりでなく、暴力的な場合もあるので、常に他者への関わりに留意していくことの大切さについても付言した。
その後の全体討議では、まず、「公共圏」の定義に関する問いが提示された。その問いに対して小原氏は、それはヨーロッパ市民社会を前提とした概念であると回答した。その際、キーワードは個の自立とか確立であり、政教分離や世俗主義を前提としている。そうした言論空間が「公共圏」であると小原氏は述べた。ただ、小原氏が言う「公共圏」はハーバーマスなどの理性や合理性にもとづく議論の延長線上にあるのではなく、人間の痛みなども組み込んだ幅広い概念であることが確認された。さらに「世間」の多元化をめぐっては、来日した外国人労働者たちがもつ「世間」が、日本の「世間」のなかで変容されていくと同時に、それに吸収されない両側面があるのではないかとの問いが提示された。それに対して小原氏は、ヨーロッパでは民族間の居住空間の孤立化が当たり前になっており、それが新たな「世間」を形成している。日本の「世間」は外国人を疎外する傾向が強いことを自覚したうえで、それを他文化の人々を包摂できるような「世間」にしていくことが求められていると回答した。また、日本の伝統的な祭りなどに、他文化の人々を招いて、交流を楽しむことも相互理解に必要なのではなかろうかとの意見も提示された。小原氏はその意見に同意し、そのうえで、私たち日本人には宗教的リテラシーが必要であり、外国の人々をリスペクト(尊重)する態度が大切であることを強調した。
さらに教祖の「脱世間」と教団の「世間」化の議論については、教祖にも本来、その両面があったのではなかろうかとの問いが提示された。その問いに対して、小原氏も教祖には両面があったことを認め、イエスもイスラエルの伝統を重視すると同時に、当時の宗教的な教えが人々を縛っていた、その縛りから人々を解放したと回答した。さらに宗教は教団化することで次第に形骸化していく。それは歴史の繰り返しでもあるが、宗教が形骸化したとき、それを刷新する力をどの宗教も内包していると小原氏は述べた。最後に、「公共圏」では、自由な討議が合意形成に至るというが、その場合、合意形成のハードルが次第に高くなっていく。たとえば、環境問題について、世界で合意形成がいかに可能なのだろうかとの問いが提示された。その問いに対して小原氏は、その合意形成の難しさを認めたうえで、宗教的価値観については中々、合意形成はできないが、気候変動への対応という喫緊の問題については、宗教の違いを超えて合意形成が必要であると回答した。さらにハーバーマスが言う「公共性」とか「合意形成」の意味を現実の課題に沿って整理しながら、問題点をさらに検討していくことの重要性を強調した。
以上のように、「公共圏」および「世間」と宗教の関わりについて、研究発表をふまえて充実した内容の全体討議をおこなった。