研究プロジェクト

研究プロジェクト

2005年度

「変化する世界における宗教――相克と調和」

過去4年間の研究プロジェクトにおいては、環境倫理および生命倫理と宗教の関わりに焦点を絞って研究を積み重ねてきました。今年度の研究プロジェクト は、これまで蓄積された研究成果を踏まえて、現代世界と宗教のあいだに見られる「相克と調和」に焦点を当てながら、現代世界における宗教のあり方を探究し ます。目まぐるしく変化する世界において、現代の科学によって提示される知の枠組みや現代社会の諸問題が、宗教とどのように関係しているのか、また、それ らの問題との関わりの中で宗教間や宗教内にどのような相克と調和が見られるのか、などの論点をめぐって探究していきます。

第1回研究会

日時
2005年3月4日
場所
キャンパスプラザ京都
「日本仏教の場合」

徳永道雄氏(京都女子大学)

 

 太平洋戦争後10年を経た頃から、日本の伝統仏教の諸宗派に一連の動きが見られるようになった。それは例外なく広い意味での教団強化運動であるといって間違いないが、その内容は大きく二つに分けられる。一つは徐々に浸透しつつあったアメリカ風個人主義の影響のもとで、それまでの日本仏教の一大特徴であった「家の宗教」から「個人の宗教」への移行が見られるようになったことである。「個人の宗教」は宗教本来のあるべき姿であるかもしれないが、過去数百年の歴史をもつ「家の宗教」意識がそう簡単に払拭できるわけもなく、半世紀経った現在もなお戸惑いは続いている。いま一つは、ほとんどの教団が社会性・倫理性に関心をもち、その導入に力を入れ始めたことである。これはキリスト教の影響というよりは、やはりアメリカ民主主義の影響であると言わざるをえない。しかし、一つの社会問題について、日本仏教の全宗派が結束して対策を講じたということは一度もなかった。反戦・平和を目指しての運動と、社会差別の問題に関しての運動には比較的多くの教団の参加が見られるが、これらにおいても伝統仏教の諸宗派と新興の仏教の諸団体との間には、少数の例外を除いては大きな溝が横たわっていると言わざるをえない。現実はこういう状況なので、仏教がいわゆるムラ社会的意識から脱皮するにはなお多くの年月を要することは間違いない。

 

 

「宗教が関与する相克の現代的諸相」

小原克博氏(同志社大学)
コメンテイター:氣多雅子氏(京都大学)

 

 今日、宗教が関与していると見られると、いきおい「宗教戦争」「文明の対立」「一神教同士の戦い」などと問題が単純化されがちである。日本の論壇における「一神教と多神教」論議はその好例である。
 もっとも、価値の対立が先鋭化する事例には事欠かない。2004年米・大統領選挙においては、イラク戦争の是非以上に道徳的価値が争点とされた。中絶、同性婚、ES細胞研究をめぐる議論は「文化戦争」とも言われているが、背後にある宗教的価値の対立は、現代における「相克」の相を映し出している。キリスト教世界の場合、聖公会を分裂させた同性愛問題も同様の熾烈さを内包している。
  「相克」の次元が同一宗教の内部で問題となる場合、それを引き起こしている要因は一体何なのか。世俗化・近代化というグローバルな変化を視野に入れた、緻密な事例研究(地域研究)が必要だろう。その一方で、宗教戦争や一神教同士の戦い、と目される紛争においては、政治的・経済的な要因を隠蔽するために「宗教」が引き合いに出されたり、利用されている場合が少なくない。問題を宗教に還元しようとする安易な発想に対しては批判的である必要がある。
  これまでの宗教倫理学会の活動でもなされてきたように、生命倫理や環境倫理の問題に対する宗教の関わりを論じることは重要に違いない。しかし、トータルな問題解決において宗教が果たす役割は、あくまでも部分的なものである。したがって、世俗的な問題領域に対し、宗教がどのように貢献できるのかの細部を具体的に詰めていく必要がある。それなしには、自己満足的・自己充足的な議論が延々と続くことになりかねない。
  宗教に直接的に関与する、あるいは内在する相克と調和の問題を析出し、そこから現代社会における倫理的課題を「表現し直す」ことができるとすれば、宗教と社会の関係を再定義することにもつながっていくだろう。

 

第2回研究会

日時
2005年4月22日
場所
キャンパスプラザ京都
「宗教間対話の解析的地平」

落合仁司氏(同志社大学)

 

第3回研究会

日時
2005年5月27日
場所
キャンパスプラザ京都
「キリスト教と禅の相克と調和――ヴィリギス・イェーガーの場合」

清水大介氏(花園大学)

 

 ヴィリギス・イェーガー(Willigis Jaeger, 1925年生)はドイツ、ヴュルツブルクのベネディクト会修道士。日本の禅師家の資格を有する。禅の方法をキリスト教に取り入れ、苦悩する現代人の司牧に挺身した。彼の開いた観想(Kontemplation)と禅の講習会は、現代の悩めるヨーロッパ人の大きな人気を博し、七千人の弟子を抱えるにいたった。著作や講演活動も活発である。
 イェーガー思想の特色は、実際に悩める人々とのカウンセリングから実践的に思想を形成しているところにある。そのため現代人の宗教的要求に合致するところが多い。
 イェーガーの基本思想は現実の事物への神の内在の強調にある。これは彼のキリスト教神秘主義と禅の経験から直接出てきた思想である。この内在観は、現世で経験可能な神を説くので、苦悩する現代人に、再び神を見い出せるという希望と励ましを与えるものであった。だが、そこには超越的道徳的人格神が二次的に位置付けざるをえなくなるという教義上の困難も胚胎している。
 彼の見るところではキリスト教神秘主義と禅は根本において同質的である。修練の方法の構造(集中と空化)においても、悟りの経験においても、同質的である。イスラム教のスーフィズムとも、ヒンズー教のヨーガとも、ユダヤ教のカッバラとも共通する。そこから彼は将来の人類のために超宗派的霊性を主張する。トランスパーソナル心理学とも近い。さらに現代人の宇宙観に合った新しいキリスト教神学の必要性を唱えるにいたった。
  このような姿勢はバチカン教理聖省の路線と対立するところとなり、2002年イェーガーの神父職に活動停止令が発令された。事件は世論の大きな抗議の嵐を生んだ。
 本発表では、イェーガー思想を、キリスト教神秘主義と禅の比較においては「神と無相の自己」の問題として論じ、イェーガーのキリスト教神秘主義と現在のバチカン教理聖省の路線との対比においては「神の人格性」の問題として検討してみる。

第4回研究会

日時
2005年6月24日
場所
キャンパスプラザ京都
「禅と倫理の問題――ヨーロッパの禅の祖師である弟子丸泰仙老師を通して」

アンナ・ルッジェリ氏(京都外国語大学)

 

 禅の倫理は、戒律を重視しながら戒律に縛られない点にあるが、禅は倫理の観念が薄いという批判は古来より多い。この点に関して、本論ではヨーロッパ禅の祖師である弟子丸泰仙(1914~1982)を取り上げたい。
 弟子丸は51歳で出家。1967年、単身フランスに渡り、教義に偏ったキリスト教に対する絶望感が広がっていた当時のヨーロッパに「只管打坐」の教えを広める。1970年、ヨーロッパ禅協会(後の国際禅協会、AZI)を設立し、またパリの仏国禅寺をはじめ、多くの寺院を開く。1976年、曹洞宗ヨーロッパ開教総監になり、更に1979年、現在のAZIの中心である“La Gendronniere”「禅道尼苑」を開く。1982年、67歳で急逝。
 弟子丸は徹底的に「只管打坐」、すなわち道元禅師による坐禅を強調したが、それに加え、ヨーロッパの人に様々な禅の教えと作法、さらに書道や茶道、華道、武道、精進料理のような日本文化をも伝えた。彼は語学的素養が無かったにも拘わらず、仏教未開の地であった当時のヨーロッパに簡潔な言葉で禅の要旨を紹介し、また多数の弟子を育てた。更に諸宗教間の対話にも励んだ。
  しかし、彼の活動は日本では余り評価されていない。それは彼の弟子の中に、アルコールや麻薬中毒患者が多く、また彼自身も自らの欲望を隠さなかったからである。しかし弟子丸の功績は、禅の伝統を守りながらも、新しい文化圏に新しい禅を移植した点にある。彼は戒律に従いながらも戒律に縛られていなかったのである。その意味で、彼はヨーロッパに新たな宗教と倫理を伝えたと言えよう。それは、宗教と倫理を超越した倫理である。言い換えれば、それは「生きた形無き宗教と倫理」とも言えよう。

第5回研究会

日時
2005年7月22日
場所
同志社大学 東京オフィス
「終末論的宗教と非終末論的社会――現代社会における根本的相克」

金井新二氏(東京大学)

 

 17世紀イギリスのピューリタン革命は、終末論(千年王国論)の爆発的高揚の中で遂行された。終末論は旧体制を破壊して近代への扉を開く「カリスマ的突破」(Bネルソン)の力であった。「ニューモデル軍」と呼ばれたピューリタン兵士たちは、聖書を抜粋した冊子を携帯し、自らの使命を終末のキリスト再来の道備えとして理解した。しかし、革命の成就と同時に、クロムウェルらの主流派は終末論を放棄し、キリストの再来は心の中のことであるとした。終末論から救済論への大胆な転換である。
  しかし、共和制から軍事独裁制へといたる革命政府自身の性格は濃厚に千年王国論的「聖徒の支配」(一党独裁)の刻印を残していた。また、ホッブスに代表される「法の支配」の思想も同じである。すなわち、ホッブスのいう統治権の絶対性、不可分離性(三権分立の否定?)、国権の下なる教会(国権主義的政教一致)、これらはいずれも千年王国論に呼応し、神の支配から法の支配への推移(世俗化)の内容となるものである。
  革命政府における終末論の放棄、救済論の揚挙は、ロックの政教分離思想を準備することになった。かれは明快に宗教とはもっぱら内面的信仰のことであるとし、神の支配が現世に到来するとの終末論の要素を排除した。それによってはじめて宗教は政治領域には関与せず、政治権力も宗教的内面には関与しないという相互不干渉としての政教分離が確立するのである。これは古代的政教分離思想としての二王国論(ロマ書13章)の近代版であった。
  現代社会はこのプロセスを継承した政教分離社会であり、ゆえに現代の政治権力は、本来的に終末論を危険視する傾向にある。宗教とは救済論だからである。この結果、現代にも少なくない終末論的宗教との間にするどい緊張をもたらす傾向をもつといえる。この点、ウェーバーが述べた官僚のもつ対宗教的態度の特長(その中心は、救済宗教性への冷ややかな軽蔑)はきわめて示唆的である。また現今のイスラム社会との軋轢も、政教分離社会と政教一致社会、終末論的社会と救済論的社会の相克であろう。

 

 

「科学技術と信仰――生命倫理の話題から」

土田友章氏(早稲田大学)

コメンテイター:澤井義次氏(天理大学)、小原克博氏(同志社大学)

 

※本発表では,ある患者と医師との臨床での応答をめぐるヴィデオ資料を用いて,信仰と倫理とについて「ともに考えて」いただいた。此処に録しておくのは,その背景となっていた思考の一片である。

1 近現代の世界の劇的な変化は,一方の科学技術のシステム化と,他方の国家による関与・介入および資本主義的経営と(さらにメディアを加えなければなるまい)が協働して,現出し推進してきた。この技術文明システムは基本的に反/非信仰的であり,一個の無二の人生の超越性を認識しないか,それをも統計的処理可能な変数に還元する。このシステムはまた,人間の統合性・全体性―それもある「超越」であるが―を抽象的数量化的に捉え,それぞれの個人の持つ特定の資質・能力(人材)を評価し利用するばかりで,一個の人格・人物には不関与である。実は個々の人生・いのちと技術文明のシステムとの非対称は拡大する一方であり,そのことがもたらす人間的問題に取り組むことは何よりも(宗教・宗派間の「相克と調和」よりも)重要である。その時にはしかし,それぞれの宗教・宗派の伝統が発展させてきた教義や象徴体系に依るのではなく,むしろそのいっそう鋭敏に寛容になった信仰の源泉から,超越への開けに歩み入ることが求められる。

2 信仰ゆえに科技文明の現実主義を批判し,人間的問題に応答してゆく行為が倫理の原基であり,活力である。(ここで信仰faithとは,自己を超越する次元への開けであり,信条・信念beliefs, convictionsと区別されるのみならず,歴史的文化的構築である宗教とも[分離されるのでは勿論ないが]区別される。宗教・宗派の伝統のある歴史的局面が,個々人の信仰を位置づけるしかたはそれぞれ異なるが,そのことを主題化しておく必要はあるだろう。) この信仰faithは慈悲・共感に通い,それと知性とが交流し拮抗し協働して,倫理が現成する。その倫理は,常に実際・臨床での相互人格的行為であり,個人の内面での思惟にとどまらない。倫理は,(時に個々の顔の見えない,まだ生まれていないかもしれぬ人々を含む)他者,すなわちある超越の次元に関わる。この知は,開けの明るみに歩み入ることであり,人と人との〈間〉にわれとなんじの出会いを可能にし,相互を豊饒にするのである。この〈間〉は,相手が苦しんでいる時に,とりわけ死生の淵に立っている時に,もっとも深く強く信仰を試し知性に聴くであろう。臨床にあっては,病者がある宗教伝統の教義・象徴体系に親昵しているならば,その言語・象徴が媒介を助けることもあろうが,その場合でさえ,「愛語」の道得(時にはユーモア)または「同事」に至るのは,信仰の本来に促された知ではないか(愛語,同事は菩提薩?四摂法のうちの二項)。一義的な答,全面的な同意が無いこともありうる状況でも,共振し共苦して活路を求めてゆくことが倫理の基底であり,本来の信仰がそれを促すのである。

第6回研究会

日時
2005年9月30日
場所
キャンパスプラザ京都
「近代西欧のヘゲモニーへのアンチテーゼとしてのイスラームの呼びかけに真摯に耳を傾ける」

中田考氏(同志社大学)

 

 イスラーム世界は元々多宗教社会であり、異なる宗教の信奉者が個人、共同体レベルで隣人として共存しているのは当たり前であった。たかだか10%にも満たない異教徒の移民を受け入れて数十年経っただけで多元社会論を語りたがる西欧とは比較するのが誤りである。
 どの世界宗教も広い世界の中でたった一人との自覚から出発した。「このグローバリゼーションの中で、各宗教は絶対性要求を取り下げらなければならない」、との主張は、自分たちこそが最も「進んだ」人間だとの思い上がりによるもので、それ自体、歴史の中で繰り返し現れる「自己神格化」現象の一つに過ぎない。
 イスラームを理解するためには、近代西欧の影響のない古典イスラーム学を参照することによって、「平和主義」、「法人」、「自由」、「民主主義」、「寛容」、「テロ」、「平等」などといった現代の言説の虚構性に気づくことが必要である。
 イスラームの使命は、イスラームの宣教ではなく、イスラームの秩序を全人類に広めることである。それは現代の文脈においては虚偽のナショナリズムと民主主義の幻想の打破、領域的国民国家の廃棄を訴えることを意味する。そしてそれは、神の法の制限の下に、イスラームの理念にコミットする者は、各人の能力に応じて自分たちの判断で正義の法と秩序を確立する積極的義務を負う一方、コミットしない者は、納税し法の許す範囲内での「私的領域」での自由を享受して(政治的・道義的)責任を負うことなく、共存する多元的法空間(ダールルイスラーム)に全世界を変えていくことに他ならない。

高野山一泊研修会

日時
2005年8月3~4日
場所
高野山大学
「われわれは相克と調和の先に何を見るのか」

嵩 満也氏(龍谷大学)

 

「伝統的仏教に内在する調和的要素」

室寺義仁氏(高野山大学)

 

講演「中世高野山の歴史と信仰」

山陰加春夫氏(高野山大学)