人は死別した人を悼み送る。古来、「とむらい」は宗教と共にあった。「とむらい」は宗教儀礼においてなされてきた。生活のなかで重要な関わりを持ったもの(縫い針、人形、生物など)の「とむらい」もなされた。
現代において、「とむらい」が宗教から離れてきた。直葬とよばれる「とむらい」(死亡した施設等から直接斎場へ行き火葬する)がなされている。散骨などの自然葬も営まれる。これらは宗教に依拠しない「とむらい」といえよう。
核家族化が進み、少子高齢化社会にあって、看取ってもらったり、とむらってもらうことができない人も増えてきており、「無縁」的な社会の様相が現れてきている。自身の死をとむらう生前葬を営む人も現われている。伝統宗教に必ずしも依拠せずに多様な葬儀のあり方が模索されつつある点に、現代人の死生観の変容が見てとれる。葬送の形をどのようにするか、それは、自身の生き方・倫理の選びであり、宗教の選び(拒絶)である。葬送を通して、宗教と倫理の現代的課題を問いたい。
野呂 靖 (のろ せい)
(本願寺教学伝道研究センター研究員。専門:仏教学、華厳)
「直葬」「樹木葬」「手元供養」など葬儀式の変化をめぐる諸問題は、近年、メディアにおいて極めて高い関心が寄せられているテーマの一つである。なかでも2010年以降、「葬儀不要論」ともいうべき葬儀への批判が相次ぐとともに、グリーフケアの観点から葬儀の必要性が再検討されるなど活発な議論が展開している。
仏教各宗派の教団レベルにおける葬儀研究は、浄土宗・曹洞宗などすでに70年代より葬儀式の変遷に直面してきた教団によって、全寺院調査やシンポジウム開催などを通じ蓄積がなされてきた。しかし、浄土真宗本願寺派においては、必ずしも十分な取り組みは進められていない。その理由の一つには、「直葬」など近年の葬儀をめぐる変化は、直接的には人口が密集する首都圏において顕在化しているものであり、全国的な課題となっていないこと、また首都圏における本願寺派の寺院数と葬儀数との関係から、必ずしも直葬がマイナスの影響を与えるものではないこと、などが指摘できよう。
一方、教学伝道研究センターが実施した葬儀社に対するアンケート調査では、葬儀社と僧侶・遺族とのコミュニケーション不足が指摘されている点が注目される。つまり、近年の葬儀においては、葬場勤行のみに僧侶が関与する、いわば「点」としての葬儀に偏っており、遺族に対する日頃からのコミュニケーションにもとづいた「線」としての葬儀が十分に機能していないことを意味していよう。しかし、葬儀や年忌法要は、遺族と深く関わりを持つための極めて重要な機会であり、かつ遺族が深い悲嘆から立ち直る心の作業(グリーフワーク)をサポートすることのできる機会でもある。さらに、宗教者側にとっては、葬儀からいかに伝道に繋げていくかという、伝道論的な課題として捉え治すことも可能であろう。
本報告では、近年のメディアや仏教界における葬儀をめぐる議論を踏まえつつ、浄土真宗本願寺派において現在進めている遺族に対するグリーフサポートとの接点について検討し、今後の課題について提言を行いたい。
寺尾 寿芳
(南山宗教文化研究所 非常勤研究員)
現代日本におけるカトリック葬儀は混乱気味な多様性を見せているが、それは近代化の進展に伴うイニシエーションの曖昧化および長期化の帰結といえる。よって葬送の考察においても葬儀そのものに留まらず、むしろ葬儀以後へと射程を延ばした視圏が望ましい。ここで神学的人間学と死別に関するケア・カウンセリング心理学における近年の知見を勘案すると、人間存在を実体ではなく関係から捉え、死生を含む生活の問題の根底に親子関係を見出したうえで、心情を言語化することの重要性が見出される。空間的には不在となったが、時間的には存在しつづける死者を情動面に配慮しつつ想起し、言語化を経て和解するシステムがここに要請されるだろう。
内観は浄土真宗の身調べをもとに吉本伊信が開発した心理療法である。母親を格別の最上位としたうえで身近な人間に対する自己の思いを反省する技法であり、「していただいたこと、して返したこと、迷惑をかけたこと」という内観三項目に従い、一週間にわたり屏風のなかに籠り、面接者に従いながら集中的に自己の記憶を調べ上げる。愛されていたことの認知に伴う健康な罪悪感、告白の対象がもつ超越性、現実の母親を超えた聖なる母を特徴とする。
カトリック司祭である藤原直達はこの内観を採用し、カトリック内観瞑想を作り上げた。藤原は内観瞑想を心理療法とはみなさないが、技法面では基本的に内観原法を踏襲している。内観瞑想の現場は「死域」、内観行為は「黄泉降り」と呼ばれ、生者と死者との交わりを視野に収めている。また神は「親の親」とされ、遠藤周作や井上洋治の母性的神像との一致をみており、インカルチュレーションの一事例ともいえるだろう。
健康な罪悪感はケア・カウンセリング心理学がいう「無能な自分であることが許される体験」(品川博二)としての癒しを生者にもたらし、その癒しの喜びを生者は聖徒の交わりを通じて死者へと贈ることで死者を救うことができる。しかも内観においては面接者のカウンセリング行為は行われず、内観構造そのものが癒しを生むとされるため、面接者に特別の技能を要請しない。よって内観経験者ならば誰でもなれるという長所がある。ここから内観瞑想は葬儀のあとにつづく一種のアフターケアとして活用することが可能であろう。
しかし内観の創始者である吉本は商人の出自として近しい養育費の計算を採用したが、それは貨幣的価値観の導入であり、内観瞑想の宗教的霊性とのあいだに違和感が生じる。また内観対象への怒りは「外観」として忌避されるが、その抑圧が秘める暴力性はくわしく考察されていない。さらに、伝統的自罰的感性がうすれゆく現代日本社会で将来とも内観に基づく内観瞑想が十分機能するかどうかはわからない。今後の展開が注目される。
櫻井 治男
(皇學館大学社会福祉学部教授)
日本在来の宗教である神道が、「死という問題」に対して、どのように向き合い、如何な る課題があるのかを問うことは、神道の宗教的性格を理解するうえで、興味ある問題を提 示している。本発表では、神葬祭に焦点を当て、(1)その歴史にかかわることがら、(2) 神道内部で議論されてきた「神葬祭問題」、(3)「神葬祭」が日本近代において、ある広ま りを見せたとき、死の儀礼として、従前の仏式葬儀からの転換を図った地域社会での様相 について報告を行った。この事を通して、神道における「死生観」や宗教的性格を照射す ることが出来ればと思う。
神葬祭理解については、学術研究の立場と実際の儀式執行の立場からの二方面がある。 前者は、歴史・制度、思想面へのアプローチや、発表者のように神葬祭を一つの宗教文化 として、当該社会がどのように接触し、受容、定着へと至ったのかなどに着目する研究が なされてきた。後者は、特に「神職」の立場として、死後観や「祓え」の問題、地域の葬 儀習俗と神道的儀式との関係における問題系を実態的に明らかにするとともに、如何に諸 課題を解決し、神葬祭を執行するかという点に関心がはらわれている。発表は、次の諸点 に沿って行った。
神葬祭とは、「神道」(神)式の葬(葬儀)と「祭」(霊祭・祖霊祭)をいうが、この葬祭 儀について、①「日本固有の葬儀(葬法)」論と②「近代における新創出の葬儀」論とがあ る。神葬祭の執行が制度的に可能となったのは明治維新以降のことである。但し、死生観 の問題については、近世の神道家や国学者によって論じられてきたが、必ずしも一致した 見解に到達してきたわけではない。死後の霊魂の行方についても、「高天原」「幽宮」「黄泉 国」、山上、海上、神社、奥墓など多様である。また、死後観や死への心構えについても、 生前における精進の重視、あるいは「神の仕業」として悲しみ受容する態度などに分かれ ている。
明治維新後、一村神葬祭化した場合があるが、新たな葬儀形式との接触、受容、定着という問題は、地域の神仏関係など、伝統的な葬儀、死生観の共有されていた社会へ、「日本 固有」の葬法という「新たな文化」がどのように共在するかという課題が種々あったことが窺える。
秋田 光彦
(浄土宗大蓮寺 住職、應典院 代表)
森伸 生氏
(拓殖大学イスラーム研究所 所長)