研究プロジェクト

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2025年度

「不在者」の倫理
Ethics of the Absent

 「「不在者」の倫理」とは、小原克博氏の「不在者の倫理」に触発されたものである。そこでは、「過去および未来における不在者を記憶・想像することは、現在の存在者である我々に対し、具体的な倫理的責任を喚起させる」とされ、その基礎付けが行われていた。

 

 「不在者」とは、字義通りには「その場にいない者」を指す。したがって、かつてはいたが今はすでにいない亡くなった人や、今はまだいないがこれから生まれてくる未来世代という意味を含みうる。しかしながら、わたしたちは、今目の前にいる人の声に耳を傾けず、あるいは現在どこかで声をあげている人のことを知りながら、その事実から目を背けていることがある。情報化社会と言われる今日、わたしたちは溢れる情報を自らの都合に合わせて取捨選択している。それは時として、わたしたち自身が、「不在者」を生み出すことにもつながっているのではないか。

 

 これまで当学会では、宗教における「自由」の問題、宗教から見た「公共圏」や「世間」について、さまざまな議論を行ってきた。一連の取り組みで明らかになってきたことの一つは、日本における「公共」とは、往々にして「世間」の別名であり、社会通念や生活習慣が、あたかも「世間教」として立ち現れるということであった。そこでは、相容れない価値観に生きる他者との平等で自由な議論の場は成り立たず、他者は他者としてではなく、自我の延長へと回収され、絡め取られてしまう。

 

 さらに、自我の延長へと回収される他者は、今日、死者にまで及んでいる。もちろん、それは現代に限定されるものではないが、生者の奢りは、たとえば死者の「加工」というかたちで、現代に特有な問題として現れている。しかし、古来、先人たちは、死者との豊かな関わりを紡ぎ出し、それを伝えてきたのではないだろうか。

 

 もっとも、対等で自由な対話が成立する場合はともかく、記憶や想像によって「不在者」の声に耳を傾けようとするとき、そこには常に恣意性がつきまとう。これは避けることのできないアポリアであるとも言えるが、だからこそ、このような主題については対話的な知恵が重要な意味を持つと思われる。そこで、2025年度は、「不在者」をキーワードに、対話的知恵によって浮かび上がる倫理的課題について考察していきたい。会員の積極的な発表と議論参加を期待する。

 

 

*小原克博「不在者の倫理―科学技術に対する宗教倫理的批判のために―」(『宗教と倫理』第16号、2016年)

第1回研究会

日時
4/25(金)18:00~20:00
場所
オンライン
講師
井上善幸氏(龍谷大学教授)
演題
「不在者」への問い、「不在者」からの問い ~浄土真宗の立場から~
コメンテーター
宮本要太郎氏(関西大学教授)

 本研究会は、今年度の研究プロジェクトのテーマである「「不在者」の倫理」とその趣旨文に掲げられた内容について、井上善幸氏を研究報告者、宮本要太郎氏をコメンテーターとしてオンラインで開催された。研究プロジェクトのキーワードである「不在者」とは、文字通りにはその場に存在しない者を指すが、井上氏は、そこにさらに含みを持たせ、わたしたち自身が「不在者」を生み出してしまうことや、亡くなった人々との関係について、浄土真宗の立場から考察を加えた。

 

 

井上善幸氏の研究発表

 井上氏は、まず「「不在者」の倫理」という2025年度の研究プロジェクト・テーマの趣旨について説明した。小原克博氏の所論から触発されたこのテーマにおける「不在者」とは、死者や未来世代、さらには無視という態度で我々が生み出している者を指す。井上氏は、死者との豊かな関係は様々な宗教伝統において受け継がれてきたとする一方で、記憶や想像によって「不在者」の声に耳を傾けるとき、そこには恣意性がつきまとうため、宗教の伝統、弔いの文化を背景とした発題や、倫理学的・哲学的考察が対話的になされることが重要であると述べた。

 続けて井上氏は、浄土真宗の立場から不在者への問い、不在者からの問いという問題をどのように捉えることが出来るかを論じ、今現に生きている、あるいは未来世代の不在者に対しては、親鸞の手紙に記される念仏者の〈しるし〉という言葉を手がかりに、一切衆生を救済しようとする阿弥陀仏への信と阿弥陀仏の対極を生きる自己への悲歎が、倫理的課題への取り組みを実現可能か否か、道徳か宗教かといった二者択一によって捉える枠組を超える道となるのではないかと述べた。また、死者という不在者に対しては、「非肉体的人格」という概念を援用しつつ、浄土に往生した故人を悟りを開いた還相の菩薩と捉える浄土真宗の教義によれば、還相の菩薩との出遇いは自己が迷妄の中に生きているということを知らされることでもあり、それは故人への追慕とは本質的に異なる側面を持つと述べた。

 最後に井上氏は、現代社会における死への向き合い方や「グリーフケア」という研究が進んでいる背景に、宗教的知見や弔いの文化が見直されていることを指摘し、死者を悼むことは過去を振り返るだけでなく、死者と共に生きるという新たな視点を提供すると述べた。結論として、不在者への問いは不在者から自身に向けられた問いでもあり、このような問いを含んだ反芻される時を生きるとき、未来の不在者や現在の不在者の声に耳を傾ける姿勢が開かれてくると述べた。

 

宮本要太郎氏のコメントと全体討議

 井上氏の研究発表の後、宮本要太郎氏がコメントをおこなった。まず、今回の発表が、近代的人間観や近代的自然観に対する批判的問い直しでもあることを指摘したうえで、昨年までの研究プロジェクトで焦点の一つであった「世間」の排他性を視野に入れつつ、「他者が他者であること」の意味を問い返した。

 また、浄土真宗の立場にかかわって、親鸞のいう「他力」の観念からは倫理的責任を引き受ける主体性をどのように捉えることができるのか、〈しるし〉概念はどこまで普遍化しうるか、「現生正定聚」の教えが「不在者の声を聞く」こととどのように関連するのか、「還相」が可能になるのは故人と生者双方の信心が前提となるのか、などの問いが出された。

 さらに、「正義の倫理」と「ケアの倫理」の緊張が同時に「公共圏」と「親密圏」との緊張とも関連することから改めて「世間」の意味を問い直す必要性や、「不在」/「存在」という二項対立ではなく「不在」「臨在」というあり方の可能性についても言及があった。

 宮本氏のコメントに続いて、参加者を交えた全体討議では、今回の研究報告のテーマで取り扱われた内容は、浄土真宗という特定の宗教的伝統における「死者」という「不在者」についての語りが中心であったが、異なる宗教的伝統の死についての異なる語りとの対話のへの展開を期待するというコメントも出された。また現在の宗教倫理についての論議は、ともすると、研究者の知的関心のレベルにとどまり、現実の「世間」に生きる人々の宗教観と乖離したものになりがちであるという課題についての指摘もあった。これらの指摘を踏まえて、今年度の研究テーマである「「不在者」の倫理」についての考察を通して、宗教と倫理との関係についての研究がさらに深まることが期待される。

 

第2回研究会

日時
5/16(金)18:00~20:00
場所
オンライン
講師
小原克博氏(同志社大学教授)
演題
「不在者の倫理─倫理の不在を克服するために─」
コメンテーター
小田淑子氏(元関西大学教授)

研究発表の要旨:
現在世代の利益を最大化することを前提とした近代的(西洋的)なコミュニティ意識を批判的に検証し、過剰に人間中心的でもなく、現在世代中心的でもない公共性を再発見・再解釈する必要がある。日本宗教・文化の場合、世代間の権利関係を超えて、生者と死者の関係、生命・非生命の関係にまで議論を広げることができるポテンシャルを有している(ただし、実際にはそれを生かすことができないでいる)。本研究会では「過去の不在者」と「未来の不在者」を統合的に見、その中間存在としての「現在の存在者」(我々)を倫理的に止揚する視点としての「不在者の倫理」(Ethics of the Absent)について検討してみたい。

第3回研究会

日時
2025年6月26日(木)18:00~20:00
場所
オンライン
講師
佐藤啓介氏(上智大学教授)
演題
「死者への倫理的配慮」とは何をどのように配慮するのか―死者AI時代という文脈において―
コメンテーター
鬼頭葉子氏(同志社大学准教授)

発表要旨:

本発表では、不在者の一つとして死者を取り上げ、死者に対する倫理的配慮が具体的にはどのようなものなのか考察を試みたい。従来、倫理学や法学において死者は配慮の対象とされておらず、主として、宗教がそのような問題を扱ってきた。宗教における死者に対する倫理は主として、埋葬・供養・弔いという問題圏において論じられてきた。しかし昨今の情報化時代のなかで、AIで死者を容易に再現できるようになるなど、死者の「死後情報」の扱いが真剣に問われるなかで、宗教的文脈に限定されない死者倫理の議論が社会的に必要になりつつある。たとえば、「死者への冒涜」「死者の尊厳」などの概念が語られる一方で、その内実は未規定なままであり、情緒的かつ修辞的な用法にとどまっている。そこで本発表では、死者AIの問題を例にしつつ、弔いの文脈に限定されない、社会的な次元で死者を倫理的に配慮するあり方を整理し、その倫理的規範の構築可能性(と限界)を考えたい。

第4回研究会

日時
2025年7月24日(木)18:00~20:00
場所
オンライン
講師
森田美芽氏
演題
「不在の神」と「他者」の再発見―ボンヘッファーの「成人した世界の宗教」を通して―
コメンテーター
岡野彩子氏

発表要旨:

 ボンヘッファーはナチス・ドイツに抵抗した牧師である。彼は獄中で親友に、現代が「成人した時代」つまりもはや神を必要としなくなった時代であり、その中で「神の御前で、神とともに、われわれは神なしに生きる」(1944年7月16日)という有名な言葉を残した。神なき時代のナチスの圧倒的な悪とは、まさに人を「不在」にするのみならず、「不在にしなければならない」人々を徹底的に疎外し、迫害し、根こぎにしようとするものであった。しかし彼は「他者のための教会」を主張し、隣人のために生きようとした。
 再び人を分断させ、見えない他者を作り敵対させようとする力の働く現代において、我々はこのボンヘッファーの思想から、「不在」から「他者のために」はいかにして可能かを学び、いかに実践しうるかを考えるヒントにしたい。