「「不在者」の倫理」とは、小原克博氏の「不在者の倫理」に触発されたものである。そこでは、「過去および未来における不在者を記憶・想像することは、現在の存在者である我々に対し、具体的な倫理的責任を喚起させる」とされ、その基礎付けが行われていた。
「不在者」とは、字義通りには「その場にいない者」を指す。したがって、かつてはいたが今はすでにいない亡くなった人や、今はまだいないがこれから生まれてくる未来世代という意味を含みうる。しかしながら、わたしたちは、今目の前にいる人の声に耳を傾けず、あるいは現在どこかで声をあげている人のことを知りながら、その事実から目を背けていることがある。情報化社会と言われる今日、わたしたちは溢れる情報を自らの都合に合わせて取捨選択している。それは時として、わたしたち自身が、「不在者」を生み出すことにもつながっているのではないか。
これまで当学会では、宗教における「自由」の問題、宗教から見た「公共圏」や「世間」について、さまざまな議論を行ってきた。一連の取り組みで明らかになってきたことの一つは、日本における「公共」とは、往々にして「世間」の別名であり、社会通念や生活習慣が、あたかも「世間教」として立ち現れるということであった。そこでは、相容れない価値観に生きる他者との平等で自由な議論の場は成り立たず、他者は他者としてではなく、自我の延長へと回収され、絡め取られてしまう。
さらに、自我の延長へと回収される他者は、今日、死者にまで及んでいる。もちろん、それは現代に限定されるものではないが、生者の奢りは、たとえば死者の「加工」というかたちで、現代に特有な問題として現れている。しかし、古来、先人たちは、死者との豊かな関わりを紡ぎ出し、それを伝えてきたのではないだろうか。
もっとも、対等で自由な対話が成立する場合はともかく、記憶や想像によって「不在者」の声に耳を傾けようとするとき、そこには常に恣意性がつきまとう。これは避けることのできないアポリアであるとも言えるが、だからこそ、このような主題については対話的な知恵が重要な意味を持つと思われる。そこで、2025年度は、「不在者」をキーワードに、対話的知恵によって浮かび上がる倫理的課題について考察していきたい。会員の積極的な発表と議論参加を期待する。
*小原克博「不在者の倫理―科学技術に対する宗教倫理的批判のために―」(『宗教と倫理』第16号、2016年)