昨年までの研究プロジェクトでは、「変化する世界における宗教――相克と調和」というテーマのもと、宗教間対話の可能性などをめぐり、現代の宗教の諸問題について幅広く論議を重ねてきた。本年からは、問題連関をもう少し絞って「祈りとモダニティ」というテーマで、宗教が現代社会においてどのような可能性をもちうるのか、という観点から研究を進めていくことにする。本テーマでは、「祈り」が宗教の原点であるという基本認識に立ち、「祈り」の概念を、神仏への祈りのみならず、瞑想やあらゆる宗教的情感をも包括するという、できるだけ広い意味で使用している。
ところで、宗教とモダニティは古くて新しいテーマである。いわゆる近代は宗教批判としての啓蒙主義・科学主義によって推進され、宗教はその存亡の淵に立たされている、という意味での宗教とモダニティの対立はむしろ古典的なテーマになった。しかし、今日の近代は、近代化の外部にあってその与件と考えられて来た宗教や家族といったあらゆる伝統や自然を自らの内部に取り込み、自らの依って立つ根拠それ自体を近代化する再帰的近代化、すなわちハイ・モダニティの時代に突入しているといえよう。この点で、宗教とモダニティの関係は、従来とは次元を異にする全く新たなテーマとなる。このような現代において宗教は何処へ行くのか、あるいは宗教の視点から現代はどのように見えるのか。これらが今後二年にわたって「祈りとモダニティ」というテーマの下で探究されるべき問題である。
手島 勲矢 (同志社大学)
ユダヤ教の「祈り(テフィラー)」は、ユダヤ教の法規的には「アミダー(立った祈祷)」と呼ばれる「18の祝祷(シュモナ・エスレ)」を指示する。それは成人男子の義務である「シェマ・イスラエル(申命記6章5節以下)」朗誦とは異なり、イスラエルの女子も幼い子も「祈り」の義務を負う(ベラホット3:3)。またイスラエルの「祈り」は、「口に出さない」言葉として理解される点でも「シェマ」とは区別されており、ユダヤ賢者は「祈り」を「心の祭儀(アボダー)」と定義している。発表者は、このユダヤ教の「祈り」の性格を、ヘブライ語聖書の伝統からどのように理解できるかに焦点をしぼり、歴史的状況からの説明を試みた。
1)「祈り(テフィラー)」の語源:「祈り」は「??? 」という語根から派生した言葉として、神と人とを「取り持つ」の意味があるとされた(J. Wellhausen)。聖書の用例を見る限り、この語根は人から神に対してのみ用いられ、「祈願」(????? )「哀願する」(????? )「求める」(???/??? )「叫ぶ」(??? )「呼ぶ」(??? )などの語根では人が人に対しても用いられることと好対照を成している。すなわち「祈り」は、聖書では、普段の言葉とのある区別を想定している言葉の行為のように考えられているように思われる。
2)「祭儀」との関係において:ラビ・ユダヤ教において「祈り」は声に出してならず「心の中の祭儀(アボダー)」とされるが、その意味については「トーラー」を構成する祭司資料が少なからず示唆に富む。すなわち、カウフマンによれば、祭司たちの「祭儀」のあり方を述べる祭司資料では行為に台詞が一言も付されていない(それは他の資料が捉える神殿「祭儀」の様子が音楽や台詞を伴うことと好対照を成している)。ラビ・ユダヤ教が「祈り」を「心の祭儀」とし、「18の祝祷」を黙って心で唱えることを課している背景には、何らかの聖書の描く古い神殿祭儀の伝統に連なる部分があることが思われる。
聖書の言語において「祈」と「願」は分けられているが、ラビ・ユダヤ教の「アミダー」の文言には日常の必要を含む願いが含まれている。ユダヤ教の「祈り」は「沈黙」を介して神に仕える「祭儀」と人の生から噴き出る「願い」を心の中で一つにした。
***
「「あなた方の神、主に仕えなければならない」(出エ23:25)――これは祈りである。彼は言う、「あなた方の心の中で彼に仕えるならば」(申11:13)――心の中の祭儀とは何を意味するのか。それが「祈り」である」(Mekilta deSimon bar Yohai on Exod 23:25)
生井 智紹 (高野山大学)
宗教を捉える一つの視点として祈るという行為がある。一般に祈りの主体は人々である。請願態、希求態という岸本英夫博士の宗教の類型にその典型を観ることができる。現実の苦という不条理からの解放を願う者たちの祈りは、苦を解脱した阿羅漢いう理想への希求の願として仏道の修行が始まる。後には、むしろ救済者への請願という趣をより顕著にし、その祈りに応じた如來、諸菩薩たちの現われが大乗の特色となっていく。
しかし大乗の特質は、そのような人々の願いが顕著になって宗教性を深めていくというだけのものではない。大乗は、苦からの解脱者という理想への希求ではなく、仏の理念そのものへの同化融合(成仏)が主題となる。無上の悟りへの誓願という語が、大乗の特質的な祈りのあり様である。さらに言うなら、祈る主体はむしろ仏である。本源の慈悲が誓願の祈りとして菩薩に顕れ、その祈りの実現が本願の達成たる成仏、浄土の実現となる。釈尊が前世でメーガ青年として燃灯仏のもとで発した無上の菩提への誓願を理想として諸菩薩が現れ、普賢行願として普遍化された大乗の祈りが顕在化する。法蔵菩薩の48願、薬師の12願などの本願として顕れた本源の祈りが大乗を大乗たらしめていく。
つまり本源の慈悲の顕現たる本願への同調が、その実現化への方向性をもった菩薩という実存の祈りということになる。その祈りの実現法が菩薩行ということになる。一般に菩薩の行は仏徳の完成(波羅蜜)という形態で捉えられる。思想史的にはその行も、仏と誓願を等しくする者たちの祈りとして、融合態から諦住態という傾向を顕著にしていく。
誓願という語が、密教文献では三昧耶という語に変わっていく時期がくる。三昧耶という神秘的同一化によれば、本源の祈りは、本願、誓願をともにするものたちの祈りに顕在化、具現化してくる。 本源の祈りがありそれとの関係のもとに祈りの実存性が顕れる。祈る実存に顕在化した本源(還源)の想いが、実存の源底を知ったときに、同じ祈りを顕在化している曼荼羅の無量の身が具体化して観られることになる。その祈りの世界に生きる自覚が、仏の祈りの具体化として実存の行動に顕れる。
室寺 義仁 (高野山大学)
「『祈り』が宗教の原点である」との基本認識に立った時、世界宗教の出発点に立つ歴史的人物(あるいは、預言者)たちには、いかなる「祈り」①があったのであろうか。そして、その教えを継承した信奉者たちにとって、この「祈り」①とは、どのような内実を持つ「祈り」②として理解されて来たのであろうか。ブッダの教えの道たる仏道を歩む者たちにとっての「祈り」②について試論を提起した。
ブッダの「祈り」①とは、総じて言えば、「大悲」(「あらゆる生き物が、苦しみから解き脱ける(ほどきぬける)ようにあれかし」)なる思願である。この「祈り」①によってすっかり取り込まれてしまうまで、心流がフォーマット・形成されて行く仏弟子たちの想い、その過程と結果が「祈り」②の内実であると思われる。
この「大悲」なる思願は、直弟子であれ後の大乗仏教徒であれ、ともに彼らの側では決して持ち得ない心と解され、ブッダに固有の特性であると価値付けられて来た。しかしながら、「祈り」②の体験は、「加持」(adhi ~の上に、√sth? 起ち上がる、との語義要素を第一義とする動詞語根から派生するサンスクリットの行為名詞からの唐代の漢訳語)という如来の側からの一方的な働きかけ行為と相俟って、その受け手たる行者の側の祈りの内実として見事に結実することが知られる。すなわち、初期の大乗経典である『十地経』に拠れば、ブッダの思願を本願として共有する如来たちは、一切衆生を代表する菩薩の(心流の)上に起ち上がり、言わば菩薩の心を把「持」掌握するから、菩薩の(心流の)上では、続いて、如来の側からの「大悲」が、言わば「加」被「加」重を繰り返して行く。そして、この「大悲」が心を占有し先導するようになった時、初めて菩薩は、道徳的精神的にためになる自らの心的諸要素である善根を、自身の方便と智慧による実践状態へと作り為して、例えば、苦しみの存在としての一切衆生を、縁起した存在として、同じく縁起した自己存在そのものに等置する観察と吟味を繰り返し行う。こうした過程を経ることによって、菩薩の諸善根は「大悲」の実現状態へと起動するように導かれ、結果、菩薩に「大悲」が発現する、と云う。ここに「加持」なる祈りは、「祈り」①と②とが相応する祈りとして結実する。
落合仁司(同志社大学)
再帰的近代性が近代性それ自体を対象化する近代性の位相であるならば、それは近代性を対象化する宗教性の位相と同相である。近代物理学をその推進力とする近代性に対して宗教は以下の三つの位相を取りうる。
報告者は第一の補完宗教の可能性に期待する。たとえば落合仁司「無限、存在、他者‐清沢満之と集合論‐」を参照。
棚次正和(京都府立医科大学)
「祈り」を「宗教の原点」と捉える研究プロジェクトテーマの趣旨説明に則り、従来の「祈り」の概念を二重に拡張することを提案したい。というのも、欧米語のprayer, pri俊e, Gebetなどと日本語の「いのり」とは、必ずしも対応していないからである。考察の際の導きの糸は、「祈りは人間の自然本性に由来する行為であり、状態である」ということと、また「祈りは宗教経験の原点をなす」ということである。第一の導きの糸からは、人間の自然本性を「絶対的なものを志向する」ことと捉えることにより、「祈る」ことと「生きる(=息をする)」こととの親密な結びつきが浮かび上がる。また、第二の導きの糸からは、宗教経験を「絶対との統一」の経験と捉えることで、相対(実存的自我)と絶対との関係に対する認識が覚醒や救済の経験となることが確認される。
まず、「祈り」や祈り関連の言葉、訳語の原語の語源探索を通して、多様な輪郭線を素描するとともに、そこに見出される共通の線分を整序すると、特定の対象への意識の方向づけや集中、そのための適切な手段の行使、聖なるものとの接触・交感やそこからの顕現などの諸契機が含まれていることが分かる。日本語の「いのり」の原義は、たぶん「い(神聖=生命力)」+「のり(宣り)」、すなわち「生宣り」であろう。こうした語源探索からのデッサンを下敷きにして、実存的な「自我」と「言葉」を目印に、祈りの現象を検討するならば、次の三局面が識別できると思われる。自我が人格の陶冶・錬成やその完成を目指して人格的超越者と「我-汝」の関係に入る「有の祈り」、自我やそれに纏わる欲望や執着を放棄し、言葉も放棄して「無我・無心」の極みに開かれていく「無の祈り」、そして生命の本源から響きわたる「いのり(生宣り)」である。いずれも言葉の最後や言葉の母源として定型の祈り(聖句や聖音)が現われ、どの祈りも三局面を含むものと想定される。ここで問われるのは、我々自身の「祈り」理解が有する妥当性に他ならない。
もう一つの焦点「モダニティ」については、従来の歴史認識が人類史全体を俯瞰したものではないこと、近代欧米発の議論をそのまま現代日本に当てはめることの是非、現代を近代(モダニティ)との連続性において捉える見解がニューエイジの隠れた潮流を看過していることなどを指摘しておきたい。
井上善幸氏(龍谷大学)
様々な宗教に見られる「祈り」は包括的な概念であって、現世祈祷はその一面にすぎない。しかし、「祈らない宗教」とされる真宗では、「祈り」の内実を“神仏に対して願い求める”という祈祷的意味に限定する傾向が強い。ここではその背景と問題点について考察する。
第一は、すでに数多くの研究で論じられているとおり親鸞の教学そのものに由来するものである。自らのはからいをまじえず、ただ阿弥陀仏の本願力によって往生・成仏が実現すると説く親鸞の浄土教理解においては、神仏に対して浄土往生を祈るという行為は厳しく否定される。また、“人間には純粋なまことの心はありえない”というのが阿弥陀仏の真実の願いによる救いを信知した親鸞の人間観である。したがって現世を祈るということはもちろん、純粋にまことの心をもって祈るということも、ともに否定されることになる。門弟宛の消息には、「いのり」が肯定的文脈で用いられる例があるが、それらは自らの往生が定まった念仏者が、他の者に対して“弥陀の誓いに入れ”と「思し召す」ということを意味するのであって、超越的人格者に対して特定の願望の実現を要請するものではない。
「祈り」の内実を、“神仏に対して願い求める”という意味に限定する理解は、江戸時代に西本願寺系の教学において発生した三業惑乱と呼ばれる論争において典型的である。当時、阿弥陀仏の本願をただ知的に理解することで救いが実現するとする無帰命安心説を正すために、身口意の三業による阿弥陀仏への帰依を勧める三業帰命説が示された。しかし、三業祈願の行をもって浄土往生の真実の因とする記述は親鸞には見られない。したがって、無帰命安心説に対して示された三業帰命説は、阿弥陀仏に対する祈願請求を信心の内実とする誤った理解であるという反駁がなされる。この見解の相違をめぐって西本願寺系の教学は混乱を来し、やがて三業帰命説が斥けられることで論争の決着を見た。このような経緯から、他力の信心は「祈願」とは異なるということが、教学上強調されることになる。これが、真宗は「祈らない宗教」とされる第二の背景である。
さらに、浄土真宗本願寺派の教章に挙げられる宗風では、「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」とあるが、非科学的な要素の排除という文脈における「祈祷」否定は、上記二つの背景に加えて、近代以降の真宗学が直面した科学・啓蒙主義に対して取った姿勢として理解することが出来る。
ところで、「親が子供の冥福を祈る」という表現には、「先立った子が今も幸せであることを念じ願っている」という内容が含まれうる。また、「祈り」には超越的人格との内面的な対話の側面もある。「祈り」を現世祈祷に限定することは親鸞の信心理解を明確にする上で有効な面もあるが、より包括的な意味での「祈り」の中で親鸞の教学を明らかにすることは、なお残された課題であるといえよう。
芦名定道(京都大学)
今年度の研究プロジェクトのテーマは、「祈りとモダニティ──宗教から現代を考える――」であるが、「祈り」と「モダニティ」という二つの事柄をつなぐことは決して容易ではない──祈りの「普遍性」に対するモダニティの「歴史的特殊性」(西欧?)、あるいは祈りにおける「個人」の比重とモダニティの「社会性」──。今回の発表では、第一回研究会における「祈り」(棚次発表)と「モダニティ」(落合発表)の議論を受けて、「祈りからモダニティ」と「モダニティから祈り」という二つの方向で議論が進められ、モダニティの状況下での宗教(祈り)の可能性について考察が行われた。
まず、「祈りからモダニティ」。「祈り」──有の祈り、無の祈り、いのり(生宣り)という三重の相──は、もし、それが「絶対的なものへの志向性」として人間の本性に属するものであるとするならば、モダニティのもとにおいてであっても、何らの仕方で(あるいは新たな仕方で)存続し続けるものと考えられねばならない。問題は、祈りという人間の可能性がいかなる仕方で現実化するのか、である(モダニティの状況下における祈りの現象学)。
次に、「モダニティから祈り」。モダニティについては、議論の視点・文脈に応じて多様な理解が可能であるが、今回の研究発表では「伝統的・封建的な社会システムのシステム変動によって生成した社会システムの全体性」(17世紀中葉から18世紀にかけてイギリスで典型的に成立しグローバル化によって世界規模で進展しつつある社会システム)と規定し、議論が進められた。この場合、「モダニティ」の特徴は制度的再帰性(ギデンズ)と解すことができるが、制度的再帰性は、懐疑を制度化(仮説という仕方での知の確実性の解体)し、内部準拠性による外部のシステム内への繰り込みとして機能することによって、社会システムの外部の問いを除去・抑圧し、伝統や権威の解体を促進するものとなる。これは、一見、伝統的な宗教を否定するものと思われるが、しかし、再帰性によって成立するシステム自体がシステムの外部の問い(システムの根拠・正当化の問い)を除去できないことに注目するならば、モダニティは必ずしも宗教の衰退を意味しないことがわかる。つまり、コントロールできないリスクの存在を通してモダニティへの正当性への問いは繰り返し提起され、モダニティによって抑圧されたものが回帰するという事態である。ここに、モダニティはいかなる宗教的可能性を秘めているのかという問題が生じる。現代のスピリチュアリティをめぐる問題は、この点からいかに理解できるのか(新しい宗教性か)。あるいは、伝統宗教は自らを変革しようと試みるのか(モダニティのもとでの伝統宗教の再構築か)。
マイケル・シーゲル氏(南山大学)
序論
モダニティへのカトリックの対応
第二バチカン公会議をもって、教会が十全的に近代に対応しようとしたが、第二バチカン公会議以前は否定の一点張りだった。社会における教会の地位に関して、必死になってこれを守ろうとした。社会問題や社会のあり方に関してだけ前向きの姿勢も見られる(しかしこれも防御的な側面もあった)。
刷新に対する反動
今はどうなっているか
一見では、いずれも第二バチカン公会議で生まれた方針の実りのように思われる。しかし:
こうして、逆戻りの側面がある。しかし第二バチカン公会議から維持されているものもある。
高田信良(龍谷大学)