研究プロジェクト

研究プロジェクト

2024年度

宗教の「自由」を再考する―現代日本を中心に
Reconsidering Religious “Liberty/Freedom” : Focusing on Contemporary Japan

 今年度(2024年度)の研究プロジェクトでは、昨年度のテーマ「宗教の「自由」を再考する―現代日本を中心に―」を引き続き検討することで、さらに掘り下げた研究成果を蓄積していきたい。

 

 本学会では、2021年度・2022年度の2年間にわたって、「宗教から「公共圏」と「世間」を問い直す」とのテーマのもとに研究プロジェクトを展開し、さまざまな議論を積み重ねた。その中で改めて浮き彫りになった論点のひとつが、日本において伝統的に人間関係を規定してきた「世間」が、近代になって欧米から「市民社会」や「公共圏」などの観念が紹介された後も、現代まで引き続き個人と集団の関係に大きく影響を及ぼしているという事実であった。たとえば阿部謹也は、「世間」が人々に生活の指針を与え、集団で暮らす場合の制約を課すものであるという点から、それを日本の「公共性」と見なしている。

 

 その結果、日本では、欧米のような個人主義が育っていないとされるが、そのことと現代日本人の多くが「無宗教」を自認していることは無関係ではなかろう。すなわち、その場合の「宗教」とは「個人の宗教的信仰」を指すが、実際はほとんどの日本人が初詣や盆など何らかの宗教行事に参加しているのであり、このことについて澤井義次は、日本では「個人の宗教的信仰」と「生活慣習としての宗教」が有機的に重なり合う多元的・重層的な意味構造を構成していると説明する。問題は、この後者の「宗教」によって(たとえば「同調圧力」という形で)前者の「信仰の自由」がしばしば抑圧されているという点である。

 

 一方、近代ヨーロッパ社会で確立した「政教分離」の原則は、世俗主義の流れの中で「公共性」(公共圏)と「自由」(親密圏)を対立するものとして位置づけてきたが、「私事としての宗教」を超え出る「公共宗教」を巡る議論は、このような公/私という構図が一面的にすぎないことを明らかにした。こんにちの欧米社会において「政教分離」が問い直される中で、「宗教的自由」が改めて議論の的となっている。

 

 昨年度の研究成果をふまえ、今年度の研究会においても、会員の積極的な発表と議論への参加を期待したい。

夏季一泊研修会

日時
2024年8月29日(木)~30日(金)
場所
関西大学セミナーハウス六甲山荘(オンライン併用)

 宗教倫理学会の2024年度夏季一泊研修会は、当初、2024年8月29日(木)~30日(金)、関西大学セミナーハウス六甲山荘(オンライン併用)において開催予定であった。ところが、台風10号の接近に伴い、急遽、2024年8月29日(木)午後、オンライン開催に変更された。その変更に伴い、30日開催予定の研修会はキャンセルされた。

 今年度の研修会の目的は、来年8月のIAHR世界大会における宗教倫理学会パネル発表の内容を検討することにあった。パネル発表を予定している宮本要太郎氏(関西大学教授)、末村正代氏(南山宗教文化研究所・研究員)、古荘匡義氏(龍谷大学准教授)、井上善幸氏(龍谷大学教授)の4名が、それぞれ研究発表をおこなった。また、パネル発表のコメンテータをお願いしているマイケル・パイ氏(ドイツ・マールブルク大学名誉教授、元IAHR会長)も、ドイツからオンライン参加して、各研究発表に対してコメントされた。その後、活発な全体討議がなされた。

 研修会のプログラムは、以下のとおりであった。

 

829日(木)<オンラインのみ>

14:2014:25 趣旨説明(宮本要太郎)

14:2515:25 4人の研究発表(各15分)

15:2515:35 休憩

15:3516:35 パイ先生のコメントと応答

16:3518:00 全体討議

 

研究発表1

「自由・自然・世間―日本宗教の多様性を理解する糸口として―」

宮本要太郎氏(関西大学教授)

 宮本氏は、「宗教の自由」をめぐって現代日本においていかなる問題が生じているのかという問いと、そもそも日本宗教において「自由」とは何かという問いの、次元の異なる2つの問いを並行して問うことを提起した。前者の問いは、現在・現象を実証的に問うことへと方向づけられ、後者の問いは、起源(ないし歴史)・本質を感性的に問うことへと方向づけられているが、一見すると対極的に見えるこれらの問いを並置することで氏は、両者の「あわい」の「場」としての「世間」の両義性(ないし重層性)の一端を明らかにしようと試みた。すなわち、世間においては「宗教の自由」が「習俗」によってしばしば制限されるが、その「習俗」が外来のもの(異質なもの)を取り入れる際には「自由」に変容していくことでそれらを吸収同化していく。氏は、この両義性を「日本宗教」の特徴として指摘することができるのではないかと論じた。

 

研究発表2

「日本の自由宗教の系譜学―明治期の宗教学および神秘主義の受容から―」

古荘匡義氏(龍谷大学准教授)

 古荘氏は、既成宗教から自由になろうとするスピリチュアリティ、というように、スピリチュアリティと宗教を二項対立的に捉えることは事態を単純化していることを指摘するため、今岡信一良(1881-1988)が実践した自由宗教がどのようにして教会的なものを形成したのかを検討した。今岡は、自由宗教人が特定の宗教に囚われずに自分自身の宗教のなかの根本的生命を追究する自由あるいは個性を重視する。しかし彼は個人の救いと社会の救いは深く結び付いており、社会の救いのためには現実世界に実現される理想的な共同社会としての教会が必要だとも確信している。特定の宗教から自由になって宗教の本質を追究する自由宗教人が、何らかの組織や儀礼によって構成される教会を必要としている。

 このような自由宗教が形成された要因として、次の3つを指摘した。(1) 今岡が綱島梁川(1873-1907)や姉崎正治(1873-1949)から学び取った、宗教体験と合理性が適度にミックスされた神秘主義理解。(2) 日本の宗教学を切り拓いた姉崎正治から学んだ比較宗教学的視点。(3) 姉崎正治や西田天香(1872-1968)、岡田虎二郎(1872-1920)の宗教的実践への参画。このように自由宗教の系譜を分析することで、自由宗教は、同時代的な宗教的思想や実践から生じた、知識人による宗教の教会形成や教会儀礼の極限的形態だと結論づけた。

 

研究発表3

「禅的自由と倫理の接点―近代日本人禅者の言説を手引きとして―」

末村正代氏(南山宗教文化研究所・研究員)

 末村氏は、鈴木大拙の自由論を考察する手がかりとして、市川白弦、津田左右吉、エーリッヒ・フロム、アイザイア・バーリンらの自由に関する言説を取り上げた。彼らの「自由」が、「権利としての自由」と「境涯としての自由」の二つに大別されることを示したうえで、「権利としての自由」における抑止力と重荷という両義性、「境涯としての自由」における自己実現と自己放棄という両義性をそれぞれ確認した。最後に小括として、「自由/libertyfreedom」の肯定的意味と否定的意味、積極的方向性と消極的方向性という四つの視点を組み合わせることによって、大拙が宗教的極所とする禅的自由を客観的に位置づけることが可能になるのではないかと指摘した。

 

研究発表4

「現代日本における宗教者と非宗教者との接点」

井上善幸氏(龍谷大学教授)

 井上氏は、宮本要太郎氏が提唱した三元論的理解、すなわち慣習としての宗教(宗教C)、信仰としての宗教(宗教F)、教団としての宗教(宗教O)を用いて、浄土真宗僧侶有志によるグチコレという活動を考察した。信心や浄土往生を強調する浄土真宗は、現世利益的な宗教儀礼を迷信として排除する傾向が強い。しかしそれは、一方で世俗的な悩みをかかえた人々を見捨てることにつながる。こうした状況に対して展開されているのが、街行く非宗教者の愚痴を宗教者がコレクションするという「グチコレ」である。この活動は従来のように宗教Fを広めることを目的とするものではなく、また宗教Oが主導するものでもないが、宗教者と非宗教者の間の新たな接点を作る試みとして評価されることを指摘した。

 

コメントおよび全体討議

 以上、4つの研究発表をふまえて、マイケル・パイ氏(マールブルク大学名誉教授、元IAHR会長)は、各研究発表の内容について簡潔にコメントした。

 パイ氏はまず、宮本氏が言う「世間」概念が、日本の社会・文化的コンテクストのなかで、どのような特徴をもっているのかを確認した。日本文化には、クリスマスのように海外の行事を柔軟に変容する特徴があり、また日本文化の基層には、人びとに共通の宗教的なものの見方が存在するとコメントした。そのうえで、宗教の「自由」と関連して、「みずから」と「おのずから」の語の意味がよく理解できないので、具体例を挙げてほしいと述べた。

 次に古荘氏の研究発表について、パイ氏は、たとえば、空海の真言宗は、その当時の伝統的宗教に対して、自由宗教(あるいは新宗教)であったが、その後、伝統的宗教となった。このように自由宗教(あるいは新宗教)と伝統的宗教との関わりに注目することは重要であるとコメントした。また今岡信一良たちが個人の宗教的探究をふまえて、超宗派的な教会を実現しようとしたことは興味深いとも述べた。ただし、IAHRパネルでは、「教会」(church)の語を使用するとき、今岡が言う「教会」の意味を説明できるように準備しておく必要があるとも助言した。さらに、姉崎正治と自由宗教との関わりがよく分からなかったので、補足説明してほしいとも述べた。

 末村氏の研究発表について、パイ氏は禅仏教で言う「自由」について、末村氏が比較研究の視点から、その語を用いているのかを確認した。また禅仏教は倫理的なのか、それとも非倫理的なのか、さらに禅仏教における倫理的な行動はどこに由来するのかという問いを提示した。

 さらに井上氏の研究発表について、パイ氏は、浄土真宗が迷信などを否定して、信心を強調しているが、IAHRパネルの参加者には、浄土真宗を知らない研究者も多いので、まず真宗の特徴を簡潔に説明したほうがよいと助言した。さらにパイ氏は、浄土真宗のなかで、「グチコレ」を聞くのはだれなのかと確認した。パイ氏によれば、キリスト教には、長年のパストラルケア(牧会的ケア)の伝統があり、それは牧師のやり方で、人びとと神との媒介を務める役割を担っていると述べた。最後に、パイ氏はパネル発表全般に関する感想として、IAHRの宗教研究者に対して、パネル発表では、日本宗教の特徴を分析的に説明するとともに、日本社会における宗教の「自由」とはなにかを明確に説明できるように準備しておくことが大切であると助言した。

 その後、研究プロジェクト委員長の澤井義次氏(天理大学)の司会のもと、パイ氏のコメントへの応答、および全体討議がおこなわれた。まず4名の研究発表者がパイ氏のコメントおよび問いに返答した。まず、宮本氏は「世間」には、世界、社会、生活、公共さらに人びとなど、多様な意味があると回答した。また日本宗教の伝統的慣習には祖先崇拝などがあるが、キリスト教伝統では、その慣習が受け入れにくいと述べた。さらにパイ氏が尋ねた問い、すなわち「みずから」と「おのずから」の意味を簡潔に説明し、日本文化におけるそれらの語のもつ相即性に言及した。

 次に古荘氏はまず、パイ氏が補足説明を求めた姉崎正治と自由宗教との関わりについて回答した。今岡は姉崎の弟子に当たり、超宗派的な「帰一協会」の書記であった。彼は宗教体験に関心を持っていたので、姉崎の考え方をふまえて超宗派的な教会を組織しようとしたと回答した。そのうえで、今岡は既成宗教とは違う新宗教を創始しようとしたわけではないと古荘氏は付言した。さらに古荘氏は、今岡による根本的生命の追及はスピリチュアリティに近いが、教会組織との結びつきを説いたことに特徴があると述べた。

 また末村氏は、パイ氏が禅の倫理的行為が何に由来するのかとの問いに対して、慈悲が倫理的行為の根拠であると思われると述べ、禅には「平等」の考え方もあるが、禅では不平等の世界をより良くしていくことは難しいとも付言した。さらに禅で言う「自由」が伝統的な教えなのか、あるいは現代的な教えなのかについては、たとえば、鈴木大拙は近代西洋の思想に影響を受けて、禅本来の伝統的な「自由」の教えを解釈したと述べた。

 井上氏は浄土真宗では、これまで僧侶が個別的に「グチコレ」の活動をしていたと述べた。明治以後、浄土真宗の多くの僧侶が教誨師を務めてきたが、教団主導で活動するときは、一般社会の価値を説くことが多いと述べた。さらに井上氏は、パイ氏のアドバイスに沿って、IAHRパネルでは、浄土真宗について簡潔な説明を準備することを確認した。

 その後の全体討議では、パイ氏が提示した新宗教と伝統宗教の関わりをめぐって、いろいろな議論がなされた。新宗教は歳月が経つにつれて、伝統宗教と呼ばれるようになるが、パイ氏は宗教学的に見れば、キリスト教が成立したとき、キリスト教も新宗教であったことを強調した。また日本社会では、積極的に倫理を説くというよりも、人に弱みを見せてもよい、また愚痴を言うことが許されるような社会であるとの指摘もあった。パイ氏によれば、立正佼成会の法座では、リーダーは仏教の教えに照らして、人びとの愚痴を言い合える。浄土真宗の「グチコレ」はキリスト教で言う牧会的ケアに当たると思われるという。ともあれ、どの宗教も、根本的には同じであるが、諸宗教間で少しずつ宗教的活動の様相が違うことに留意すべきであるとパイ氏は述べた。

 さらに、西洋思想における「自由」と東洋思想での「自由」の違いについても議論がなされた。日本社会は自分の自由意思で生きているというよりも、関係性のなかで生きているという傾向が強いとの意見が提示された。したがって、自分の意思でそうしているのか、それとも関係性のなかでそのように考えて行動しているのかが曖昧であり、「みずから」と「おのずから」のあわいで生きていると言えるのでは、との意見も提示された。

 以上、オンラインによる夏季研修会は、充実した4つの研究発表をふまえて、ドイツからパイ氏がコメンテータとして参加してくださり、実りある活発な全体討議がおこなわれた。

第1回研究会

日時
2024年4月19日(金) 18:00~20:00
場所
オンライン
講師
那須英勝氏(龍谷大学教授)
演題
黙雷と雷夢―宗教的自由と精神的自由のはざまに生きること―
コメンテーター
宮本要太郎氏(関西大学教授)

那須氏の研究発表

 那須氏は、以下に提示した配布資料に沿って研究発表をおこなった。そこで本報告では、配布資料を掲載させていただく。

 -------------------

 幕末に生まれ、浄土真宗本願寺派の僧侶として維新期から明治末に活躍した島地黙雷(1838-1911)は、明治5年(1872)にヨーロッパ各国を視察し、西欧の宗教事情に学び、「三条教則批判建白書」(1872)を提出し、神道国教化を進める明治政府近代国家の宗教政策として政教分離、信教の自由の必要性を説き、真宗各派の大教院分離運動を進めたことはよく知られている。

 しかしその長男であった島地雷夢(1879-1915)は、キリスト教への対抗心を燃やす黙雷の意に反して第二高校在学中に吉野作造(1878-1933)、内ヶ崎作三郎(1877-1947)らとともに洗礼を受けクリスチャンとなる(1898)。雷夢は東京帝国大学(哲学専攻)卒業後、旧制中学(神戸一中)の倫理学の教員となり三十五歳の若さで没したが、その事績についての研究は、伝統的仏教教団のリーダーの「宗教二世」としての視点からの言及にとどまっているようだ。

 しかし雷夢は、近代国家形成の時代に「<個人の宗教的信仰>と<生活慣習としての宗教>が有機的に重なり合う多元的・重層的な意味構造を構成している(澤井義次氏)」と言われる日本の宗教文化の中で、仏教とキリスト教という二つの宗教(宗教家)たちからの「同調圧力」に抗いつつも、「個人の宗教的信仰」を通して精神的自由を求めた。そうした雷夢の姿を、限られた資料を通してではあるが、その家族との関係にも触れつつ再検討してみたい。

 

島地黙雷と政教分離・信教の自由

 周防国(山口県)出身の浄土真宗(本願寺派)の僧侶で、明治維新政府の中枢と深く繋がりを持っていた島地黙雷についての研究は枚挙にいとまがない。特に近代日本宗教の研究においては、黙雷が明治5年(1872)にヨーロッパ各国を視察し、西欧の宗教事情に学ぶだけでなく、オスマン帝国、エルサレム、さらに帰途インドの仏跡を礼拝したこと、そしてその外遊経験をもとに「三条教則批判建白書」(1872)を提出し、神道国教化を進める明治政府近代国家の宗教政策として政教分離、信教の自由の必要性を説き、真宗各派の大教院分離運動を進めたことは非常によく知られていることである。

 明治5年に神祇省を廃止して設置された教部省のもとで発足した大教院では『三条の教則』(「敬神愛国の旨を体すべき事」・「天理人道を明らかにすべき事」・「皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事」)に基づいて国民教化を進めた。発足当初は神官だけであった教導職が、仏教諸宗の積極的な建白により僧侶を含めた神仏合併のものとなり、明治6年(1873)大教院も芝増上寺に置かれる(仏殿の中に神社の拝殿が設置される)が、次第に神・仏間の主導権争いの激化とともに両者の融和は実現しなかった。明治8年(1875)には「神仏合同布教」は禁止され、大教院も解散し、教部省も明治10年(1877)に廃止され、明治政府の天皇制の下での政教分離の原則が成立したとされる。また大教院の解散については、西欧近代国家の政教分離・信教の自由の理念に学び三条教則批判をおこなった島地黙雷の指導のもとに真宗各派が大教院から離脱したことにより組織の運営が成り立たなくなったことによるものとされる。

 黙雷の主張した近代国家における政教分離の原則とは「欧州政教見聞」において「教也者何ぞ、人を導き政を裨くるにあり。夫只人を導く、未だ曽て人を治むるものに非ず。而して政を裨く、これ政を行ふに非ざるなり」とする。つまり教(宗教)は「政を裨く」ものであり「政を行う」ことではない、また教(宗教)によって「人を導く」ことは「人を治むる」政治とは明確に区別されなくてはいけないという主張である。また両者を混同することは「信教の自由」を侵害することになるという批判でもあった。

 黙雷(本願寺派の主張)の「信教の自由」の主張は大教院の解散後、時を経ずして、明治政府から本願寺に出された「信教自由の口達」を得ることで、教団・宗派のレベルでの「信教の自由」が認められることで一応の決着がついた。その口達なかでは政府は「神仏各宗共信教の自由を保護して」とあり、またその自由を認める対象は神仏各宗の「教法家」としていることからも、黙雷が「信教の自由」として求めたもの、そして得たものは基本的人権としての(個人の人権としての)「信教の自由」ではなかったのである。

 

宗教的自由と精神的自由の間で生きた島地雷夢

 黙雷は、本願寺派の指導者として「政教分離」を主張し、大教院離脱を通して真宗教団の「教法家」の「信教の自由」を勝ち取ったのであるが、計らずして、その家庭の中では、個人の人権としての「信教の自由」の問題に直面することになった。長男であった島地雷夢(1879-1914)は、キリスト教への対抗心を燃やす黙雷の意に反して第二高校在学中にアニー・ブゼル(1866-1936)のバイブルクラスに参加していたが、1898年に吉野作造(1878-1933)、内ヶ崎作三郎(1877-1947)らとともに仙台独立浸礼協会(バプテスト)の中島力三郎から洗礼を受けクリスチャンとなる。

 35歳で没した雷夢の事績はそれほどよく知られていないのだが、東京帝国大学を哲学専攻で卒業後、旧制中学(神戸一中)の倫理学の教員となり神戸一中で雷夢の講義を受けた若き日の矢内原忠雄(1893-1961)に影響を与えたと言われる(矢内原は「彼 [雷夢] はキリスト教を伝道しようとしたのではないが、キリスト教の信者の心の在り方を示し、光を我々の心に投じた。これは私自身の精神史上、欠くことの出来ない1頁であった」と回想している)。雷夢の関わった出版物としては、実弟でインド留学中に没した弟の清水黙爾(1875-1903)の著作を編纂した『紫風全集』(1912)があり、また没後に弟で東京帝大を卒業した植物学者であった島地威雄(1889-1963)が編纂した句集『風のゆくへ』がある。その他の著作としては、明治後期に起こった新仏教運動の月刊誌である雑誌『新仏教』(10-2, 16-4, 16-5)に没後に掲載されたものも含めて、短いものではあるが、3件ほどの寄稿があったことも知られている。また『新仏教』(16-3)誌上には藤井瑞枝(1870-1924、藤井宣正の妻 [1859-1903])の追悼文も掲載されている。

 雷夢についての研究は、そのキリスト教入信の過程について詳細に検討した影山礼子氏の論考があるが、受洗以降の雷夢が、クリスチャンとして積極的に伝道活動を行なったという様子もなく、日本のキリスト教研究においては、アニー・ブゼル、栗原基や、吉野作造、内ヶ崎作三郎に関連する論考の中の「こぼれ話」程度で登場するくらいである。また近代仏教史の研究においても、雷夢は、キリスト教への対抗心を燃やす父黙雷の意に反して(こともあろうに)クリスチャンになったが夭折した「不肖の息子」の扱いのものが多い(下記の影山氏の記述がその典型的なものであろう)。

 島地雷夢(18791915)は、近代日本における仏教革新運動のリーダーで浄土真宗本願寺派僧侶として名高い島地黙雷の後継者として生まれ、旧制第二高等学校(仙台市)(以後、二高と略記)の学生時代にキリスト教(プロテスタント・バプテスト教派)女性宣教師アニー・S・ブゼル(Annie Syrena Buzzell, 1866~1936)のバイブル・クラスに参加、彼女に導かれてキリスト教に入信し人間形成した人物である。しかし、彼のキリスト教受容は、彼が著名な父・黙雷の子として生を受けたがゆえに、父や仏教界との深刻な確執を生み、やがて、東京帝国大学進学のため東京の自宅に戻ったことをきっかけに、家族の嘆きや社会的プレッシャーを受けて動揺し、キリスト教と仏教(浄土真宗)との狭間で思想的な沈黙を守る、という経過を辿った。彼は思想的な煩悶から健康を害し、36年の短い生涯を終えた。(影山礼子「島地雷夢の人間形成とキリスト教(2)」、『関東学院教養論集』22 [2012] p. 101

 しかし、上記の記述の下線部については、果たしてそうであったのか、以下、限られた資料を通してではあるが少し検討してみよう。

 まず「東京帝国大学進学のため東京の自宅に戻ったことをきっかけに、家族の嘆きや社会的プレッシャーを受けて動揺し」についてであるが、この時期の第二高校以来の雷夢の学友であり、同じく東京帝大に進学したクリスチャンの小山東助(1879-1919)の記述によれば(「薄倖の秀才島地雷夢」『鼎浦全集』3p. 550-553)、確かに社会的なプレッシャーはあったかもしれないが、家族関係については、当時クリスチャンの友人として小山氏島地家に出入りすることには特に問題があったわけでもなく(むしろ歓迎されていた)、本人がプレッシャーを感じて「動揺」していたわけでもなく、また「家族の嘆き」があったようには感じられなかったようである。

 さらに「家族の嘆き」については、少なくとも雷夢の兄弟においては、ほとんど存在しなかったのではないかと思われるのである。例えば、東京帝大で仏教研究を進めていたが、インド留学中に亡くなった弟の清水黙爾の遺稿集である『紫風全集』の編纂を、雷夢に任せるほどであり、本書の末尾に収録されている黙爾への追悼文に名を連ねている親族を含む多数の関係者を見ても、雷夢に本書の編纂を任せることに異を唱えるものはいなかったのではないだろうか。また雷夢没後に出版された句集を編纂したのは実弟である島地威雄であることからも、兄弟の関係が非常に良好であったことを示しているといえよう。

 また雷夢が「著名な父・黙雷の子として生を受けたがゆえに、父や仏教界との深刻な確執を生」んだという点については、確かにそのような確執はあったのかもしれないが、洗礼を受けてクリスチャンになったからといって家を追い出されたわけでもなく、少なくとも、帝大生としては東京の実家に住み、また島地家には彼のクリスチャンの友人たちが出入りすることにも何の問題もなかったようである。さらに、雷夢に代わり養嗣子(法嗣)となった島地大等(1875-1927)には、キリスト教に言及した論考が多数残されているが、大等が雷夢の人脈を通してキリスト者とのかなり深い交流があったことが知られ、仏教徒としてキリスト教を理解すべきであるかについての大等の思索には、雷夢の影響が大きかったという指摘もされている(川元惠史「島地大等の研究」龍谷大学学位請求論文(2018p. 87-98)

 最後に「キリスト教と仏教(浄土真宗)との狭間で思想的な沈黙を守」っていたかどうかであるが、帝大生であった当時の雷夢は、どちらかというと「思想」ではなく文学・文芸の方に関心を寄せており、キリスト教と仏教(浄土真宗)のいずれにも「教団レベル」の思想・運動として関わることを避けて、あくまで「個人の宗教・思想」として受け入れようとしていたのではないかと思われる(「薄倖の秀才島地雷夢」p. 553-554)。

 大学卒業後、雷夢は神戸一中(現在の神戸高校)の倫理学の教員として勤めることになるが、当時、小山東助は関西学院の教員をしており、雷夢の死の直前まで最も近い友人の一人として交流があったが、クリスチャンの小山の記すところによれば、その最後は「健康を害して、36年の短い生涯を終えた」のであるが「思想的な煩悶から」ということでは全くなかったようだ。没後、遺骨は父黙雷と同じ墓に納められたのだが、小山によれば、父黙雷の没後、雷夢は「信仰の故郷に帰らしめ」られ、また「アーメンと呼ぶより、南無阿弥陀仏と唱えることを好いて居った」(「薄倖の秀才島地雷夢」p. 562)ということである。

 

まとめ:雷夢からみた黙雷

 本発表の冒頭で、雷夢を「伝統的仏教教団のリーダーの宗教二世」として「近代国家形成の時代に仏教とキリスト教という二つの宗教(宗教家)たちからの「同調圧力」に抗いつつも「個人の宗教的信仰」を通して精神的自由を求めた人物として再検討してみようと述べた。洗礼を受けクリスチャンとなり、東京帝国大学で哲学を学び、また神戸一中の倫理学教員を勤めながら、仏教とキリスト教の間を取り持つ役割も果たしていたのである。

 これは没後出版された句集『風のゆくへ』の後書きに記された、雷夢の死を悼む知友の名に、当時の哲学(井上哲次郎)、宗教学(姉崎正治)、仏教学者(村上専精・前田慧雲)、国文学者・歌人の佐々木信綱に加え、小山東助、内ヶ崎作三郎、栗原基など第二高校以来のクリスチャンの友人などが名を連ねているところからも、キリスト教、仏教のいずれの信仰に対しても窺い知れる。また神戸一中で雷夢の修身の講義を受けた矢内原忠雄(1893-1961)に影響を与えたという指摘もある。

 残された課題としては、雷夢が父黙雷をどのように見ていたのだろうかという問題である。この点については、雷夢は自分の信仰についても、まとまった文章を残しているわけではないので明確に知る手掛かりもないのであるが、句集『風のゆくへ』に、父への思いを記したと思われる一首が残されている。

 

  ひじりとや鉄のむちとり我さえに

   え行かぬ道に人を強ふとや (句集『風のゆくへ』p. 5

 

 この句には教団レベルの「信教の自由」主張する父のもとに生まれた「宗教二世」からみた父親への思いが込められているのではないだろうか。

 仏教とキリスト教という二つの宗教(宗教家)たちからの「同調圧力」に抗いつつも、「個人の宗教的信仰」を通して精神的自由を求めた雷夢であるが、父黙雷の没後には、クリスチャンの友人である小山東助が「アーメンと呼ぶより、南無阿弥陀仏と唱えることを好いて居った」といい、最終的には父と同じ墓におさまることになる。このような雷夢の生き方をどのように評価すべきであるかは、さらに検討する必要があると思われるが、彼は、澤井義次氏が日本宗教は「<個人の宗教的信仰>と<生活慣習としての宗教>が有機的に重なり合う多元的・重層的な意味構造を構成している」と言われるところにおさまっていったとも言えるのではないだろうか。

 

コメントと全体討議

 以上、那須氏の研究発表の後、宮本要太郎氏がコメントをおこなった。宮本氏はコメントのなかで、まず、若くして亡くなった雷夢が結婚していたのかどうかを那須氏に尋ねた。その問いに対して那須氏は、彼は生涯、独身であったと回答した。また宣教師アニー・S・ブゼル氏の宣教活動について宮本氏が尋ねたところ、ブゼル氏は牧師ではなかったが、英語や聖書を教えるとともに、社会活動もおこなっていたと回答した。さらに宮本氏は雷夢の葬儀がキリスト教式であったのか、それとも真宗式であったのかを尋ねた。その問いに対して那須氏は、その点について詳しく記録されてはいないが、本人は仙台にある父親の墓に入りたいと願っていたし、法名ももっていたことから判断すれば、おそらく真宗式の葬儀がなされたと思われると回答した。

 それらの回答をふまえて、宮本氏は雷夢の葬儀が仏式でおこなわれ、それが本人の希望であったとすれば、澤井氏が言う「個人の宗教的信仰」と「生活慣習としての宗教」が、雷夢のなかで折り合いをつけていたと言えるだろうとコメントした。ただ、那須氏は宮本氏のコメントに対して、葬儀はふつう個人的なものというよりも社会的なものであるので、そのことに雷夢はあまりこだわっていなかったようだと述べた。さらに彼の葬儀については、もう少し掘り下げて研究する必要があるとも那須氏は応答した。

 さらに宮本氏は、現在、「宗教二世」の問題が話題になっているが、今回の事象と共通した構造があるように思われると述べた。親の信仰実践が子どもの意思と関係なく強制され、雷夢が島地黙雷の長男であったことから、彼の受洗が社会的に注目されたと思われる。島地黙雷がキリスト教に対抗心を抱いていたことが、雷夢にとっては、それが親への反抗心、あるいは親から自立するための手段として、親の信仰と違うキリスト教を選んだ可能性もあるように思われると述べた。さらに彼の友人たちからの同調圧力があった可能性もあると宮本氏は述べた。それは横浜バンドや熊本バンドでも同じようなことがあったと思われるとコメントした。最後に宮本氏は、雷夢の生き方が現代と重なる点もあるように思われると述べて、興味深いコメントを終えた。

 その後、澤井義次氏(研究プロジェクト委員長)の司会によって、全体討議がおこなわれた。ここでは、おもな質疑応答を中心として、全体討議を纏めておきたい。まず、白井成允『聞法録』には、島地黙雷が雷夢に送った手紙などが残されていることが指摘された。それらの手紙を読むと、黙雷がキリスト教に批判的であったことがよく分かるし、雷夢が念仏を許容する発言も増えていったことが窺えるとのコメントが提示された。それに対して那須氏は、キリスト教側のデータと仏教側のデータに少し違いが見られるので、もう少し検討する必要があると応答した。

 また雷夢がキリスト教の信仰を素朴なかたちで受け入れて改宗した点は大変興味深いとの感想も出された。さらに雷夢は学校で倫理すなわち「修身」の教科を教えていたと言われるが、その内容はどうであったのかとの問いが提示された。その問いに対して那須氏は、当時の国家神道色の強い「修身」の内容であったのではなく、トルストイや外国文学を教えるなど、かなり自由な内容を教えていたようだと回答した。

 また雷夢は詩に関心があったとのことであるが、宗教的な詩も書いていたのかとの問いが提示された。その問いに対して那須氏は、彼の句集を見ると、必ずしも宗教体験を語るような、宗教的な詩を書いていたわけではないと回答した。ところで那須氏は、雷夢が受洗した後、伝道に関わったことはなかったが、キリスト教的な精神を示す話もしたようだと述べた。また雷夢が育った生活環境に関する問いに対して那須氏は、雷夢が成長したのは東京の家であったが、真宗の寺で育ったのではなく、いわば一般家庭のようなところで育ったと回答した。さらに、那須氏の発表題目の副題、すなわち「宗教的自由と精神的自由のはざまに生きること」がどのような意味であるのかとの問いが出された。その問いに対して那須氏は、宗教的自由とは雷夢が自分の持って生まれた制度的宗教から自由になることを、精神的自由とは宗教の違いにとらわれない心の自由を意味しており、雷夢がそのあいだに生きたことを示唆していると回答した。

 研究会に参加した会員のほとんどが、これまで島地雷夢の存在を知らなかったこともあり、活発な質疑応答がおこなわれた。まさに今年度の最初の研究会に相応しく、充実した内容の全体討議であった。

第2回研究会

日時
2024年5月24日(金)18:00-20:00
場所
オンライン
講師
小田淑子(元関西大学教授)
演題
宗教の自由と宗教の存続
コメンテーター
澤井義次(研究プロジェクト委員長、天理大学名誉教授)

小田氏の研究発表

 小田氏は、以下に提示した配布資料に沿って研究発表をおこなった。そこで本報告では、配布資料をふまえて、本報告を作成させていただく。

 

 

宗教の統合的理解を目指す立場

 宗教学・宗教史の立場は、世界には類型の異なる多くの宗教があることを念頭に置き、歴史上の形態と現象を主に考察するが、私は信仰や神秘体験という超越との交流、教義・宗教思想も含めた不可視の次元にも考慮し、宗教の統合的理解を目指す立場でこの問題を考察する。

 

宗教の自由と宗教の存続

 宗教が共同体を基盤に世代間伝承して存続することは宗教史の事実だが、存続様態はどの宗教研究でも不思議と看過されてきた。ワッハは宗教にとって共同体が不可欠の構成要素だと見抜いたが、(共同体の存在が存続と世代間伝承を自明の事実として前提していたとしても)存続問題には言及していない。宗教の存続とは親が子に自分の宗教を教え伝えることを意味する(この問題は宗教と婚姻の関係、今日話題になった宗教二世の問題に密接に関連し、大きなテーマへの展開が予想される)。子供は母語を覚え社会化する過程で特定の文化や宗教に触れ、身に着ける。それは子供には「自由選択ではなく押し付けられた宗教」であり、宗教には「宗教の自由」に反する伝承という問題を内に含む。(現代日本ではその伝承はなくなったように見えるが、神道と仏教が存続する限り、両者はどこかで継承されている。また、一般に宗教の異なる結婚は子供にどちらの宗教も教えないか、一方の宗教を教えることで他方の伝承ができなくなるなど、伝承システムが作動しなくなる。現代はこういう傾向が強くなっている。)

 この伝承様態が宗教を慣習化・形骸化させると批判されるが、宗教の基本的特質でもあることを否定できない。宗教の主体的信仰は、多くの場合、伝統宗教の内部で、時には他の伝統宗教への改宗の際に生じる。しかしまったく未知の神の声を聞くのは創唱者のみで、これを神の声を受けとめるか否かは大問題となる。

 信教の自由はヨーロッパでの宗教改革以後にキリスト教徒が教会帰属の自由、つまり国家と教会の分離を求めた。それはキリスト教において教会帰属が救済に関わる問題だったからであり、近代国家の成立とともに個人の信教の自由が基本的人権の一つとして確立された。国家と教会の分離はやがてより一般的な政治と宗教の分離に変化したが、この変化の意味は慎重に検討されるべき問題を含む。というのは、イスラームや仏教諸宗派にはキリスト教教会に等しい救済権限をもつ組織はない。キリスト教世界内部でも国家と宗教の分離のあり方には相違があり、まして欧米キリスト教世界それ以外の地域でも宗教の自由は同じだと言えるのか、さらなる検証を必要とするだろう。近代以前から、ユダヤ人のような少数派の民族や宗教の人々は生活するために、居住社会の多数派の言語文化と宗教になじまざるを得なかった。その中でユダヤ教徒は自己の信仰を固持し、現代ではヨーロッパでのムスリム移民たちも自分の宗教を保持し続けている。

 

日本における宗教の自由とその特異性

 最後に、日本における宗教の自由の特異性についても少し言及したい。日本では、仏教伝来当時から仏教に改宗しても、日本的神道共同体を否定した仏教共同体を形成しなかったし、それ以後も日本的共同体に属する限り、仏教諸宗派の帰属が異なっても婚姻は自由だった。これが、寺請制で仏教が家の宗教となる江戸時代以前でも、日本人が宗教の相違をあまり意識せず、信教の自由を深く考えない原因の一つだと思われる(ただし、親鸞や道元の宗教思想を見ると、各自の仏教を深く自覚していたことは明らかだが、どちらも教団を形成したが、独立した宗教共同体ではない。つまり、暮らしの営みと結びつく神道儀礼などが必要とされ、仏教と神道の共存が続いた)。明治時代以後、明治政府は神道非宗教論を根拠に国家神道を国民に強制しつつ、キリスト教に信仰の自由を保証した。その結果キリスト教徒が天皇を神として崇拝礼拝することを拒否する(=日本的宗教共同体の否定)と、非国民とみなした。だが、政府・国家はキリスト教徒に個人の信仰の自由を認めており、信教の自由を犯したとは認めなかった。

 戦後の日本での信仰の自由は主に政治家や自衛隊の靖国参拝問題つまり戦前の国家神道の強制への反対の場面で顕在化する。キリスト教徒と一部の仏教者は個人の信仰を固持するために反対するが、多くの日本人は靖国参拝が国家神道への逆戻りを意味するという理解のもとに、それを非難し拒む。だが、現在は国家神道は具体的な宗教団体ではない。過去の国家神道への逆戻りへの危惧とは、すでに現在にも国家神道の伝統が残存することを鋭く感知するからである。またその拒否は各自の信仰の保持のためでなく、ただそれの否定、離脱であるとすれば、日本人が靖国訴訟で求めている宗教の自由は無宗教への自由の主張である。しかも、無宗教である自由を主張する人々も日常的な生活仏教と地域の祭などの神道儀礼に従っており、宗教学的に無宗教とは言えない。日本的宗教の問題は、多くの日本人が日常生活の中で触れている宗教文化を堂々と無宗教と看做している点にあると私は考えている。宗教の自由の問題も、この問題との関連を視野に入れて考える必要があるだろう。

 最後に宗教二世の問題であるが、私はどの宗教でも宗教二世は存在すると考えている。ただし、親が教える宗教教義が今日の世俗的価値や大多数が暗黙に認めている日本的宗教からかけ離れている場合、一部の子供は親の言う通りに生きるが、一部はそこからの離脱を求める。親への反発は一般的な反抗期にも見られ、実家の寺やキリスト教信仰への反発や離脱も相当数あるだろう。だが、今日カルトに属する宗教二世つまりカルト二世の問題は、諸宗教の存続様態と同じ要素を持ちながら、児童虐待に相当する事態や過度の自由制限といった問題を含む。その子供たちの救済措置や保護などの施設や制度が必要だが、カルトと宗教との線引きは簡単ではないだろう。さまざまな宗教教義は程度の差はあるが、各時代の世俗的価値観や社会通念を否定することも多いからである。多数派とは異なる宗教を信仰する自由を守ることが信教の自由の大事な点であるが、そのことに配慮しながら、カルト問題には厳しく対応することも求められている。

 

コメントと全体討議

 小田氏の研究発表の後、澤井義次氏がコメントをおこなった。澤井氏はまず、小田氏が用いる二つの宗教概念の意味について尋ねた。小田氏は宗教学者ヨアヒム・ワッハの概念「共同体」(community)を援用して「日本的共同体」の語を用いたが、その語は「日本社会」という語とどのように意味が異なるのか。また日本宗教の「世俗化」を言う場合、それはどういう現象を意味するのかと尋ねた。その問いに対して小田氏は、ワッハが「宗教共同体」(religious community)と言う場合、それは「教会」(church)や「制度」(institution)の概念よりも広い概念であり、「社会」は宗教より政治や社会制度に焦点がある概念であると回答した。ただし、現代日本の場合、「共同体」と「社会」は実質的に重なり合っているとも付言した。さらに小田氏は、「世俗化」について、キリスト教を背景とする従来の議論は、私たち日本人には違和感がある。日本社会では、宗教的なものが社会全体に浸み込んでいるので、聖と俗を明確に区分できない。「世俗化」については、日本の学界では、明解な見解が提示されていないと回答した。

 そのうえで澤井氏は、小田氏の研究発表の内容について、若干のコメントをおこなった。まず、小田氏が提示する「宗教の存続」という視点から、日本宗教を理解しようとする研究はこれまでほとんどなかった。そうした点で、いわば従来の宗教学が見落としてきた問題点の提起だと思われるとコメントした。また、宗教を統合的に理解するために、小田氏が宗教の思想ばかりでなく、生活レベルでの信仰の継承にも注目すべきことを強調したことも、宗教学的にきわめて重要なポイントであると述べた。さらにもう一点、これまで私たちが「宗教の自由」を論じるとき、近代に生じた普遍的な権利と要求だと捉えていたが、宗教改革後のキリスト教徒は、宗教の自由を自分の救済に関わる深刻な問題として捉えたように、私たち日本人がこの問題を自覚したことはなかったように思うと述べ、宗教の自由の問題を捉え直す必要性に言及した。この点については、今年3月の公開講演会において、鎌田繁氏がイスラームには、西洋で言うような「自由」はないと述べたように、私たちは「宗教の自由」のあり方を再考すべきだろうともコメントした。

 その後、澤井氏の司会によって全体討議がおこなわれた。まず、研究発表のタイトルにある「宗教の自由」という言葉について、それは「信教の自由」とか「信仰の自由」という意味なのかという確認の問いが提示された。それに対して小田氏は、そういう表現のほうが適切であるが、本学会の研究テーマでも「宗教の自由」という表現を用いているので、あえてその表現を使用したと回答した。また、「宗教の存続」という視点からは、仏教は仏法僧を三宝と重視し、僧とは共同体のことである。したがって、仏教では当初から、仏教の存続を視野に入れていたと思われるとのコメントが提示された。さらに、コロナ禍以後、葬送儀礼として、家族葬がますます多くなっており、無宗教葬も増加しつつある。現代社会では、宗教の存続がますます難しくなっていることが、全体討議のなかで確認された。

 戦前、日本のキリスト教徒の中でも、特に純粋に信仰に生きようとする宗教的少数者が弾圧を受けてきた。今日、そのことの反省が必要であるとの意見があった。また小田氏は、研究発表のなかで、カルトと宗教の切り分けの難しさに言及したが、一方で、澤井氏が言う「生活慣習としての宗教」と「個人的信仰としての宗教」は、無宗教の視点からは切り分けられやすい。また「無宗教」には何らかの宗教性があると思われるとのコメントが提示された。

 さらにこれまで信仰の継承については、社会学や民俗学などの研究が見られるが、小田氏がどうして「宗教の存続」の語を用いたのかとの問いが提示された。その問いに対して小田氏は、民衆を基盤とした全体的な統合によって、宗教共同体が存続していくという、宗教の全体性を捉えたいと思って、あえて「信仰の存続」と言わずに「宗教の存続」と表現したと回答した。そのうえで小田氏は、歴史的にとらえると、宗教が存続するなかで、個人的な信仰の継承も矛盾なく継承されてきたと言えるのではないかと述べた。

 以上のように、現代日本社会において、取り扱うことが難しいテーマについて、充実した内容の研究発表に続いて、活発な全体討議がおこなわれた。

第3回研究会

日時
2024年6月28日(金) 18:00-20:00
場所
オンライン
講師
山根秀介氏(舞鶴工業高等専門学校准教授)
演題
ジェイムズのプラグマティズムと宗教の自由
コメンテーター
氣多雅子氏(京都大学名誉教授)

山根氏の研究発表

 山根氏は、配布資料に沿って研究発表をおこなった。本報告では、配布資料をふまえて、本報告を作成させていただく。

 

問題設定

 リチャード・ローティは、プラグマティズムから大きな影響を受けて、徹底的な反表象主義・反本質主義・反基礎付け主義の立場を構築し、哲学が探求してきた、真に存在するものとしての実在という概念、その実在に合致・対応する観念としての真理、あるいは実在を適切に描写する真なる言明という概念は無意味であると宣言した。彼はこうした考えのもと、理想的なリベラルな社会においては、公私の区別が徹底され、宗教的信仰はその「私」に割り当てられるべきであると考えた。公共と宗教との峻別は、多様な価値や伝統が共生するために不可欠の理念であり、諸宗教が可能な限り相互に対立することなく、自由を発揮するための原理でもある。しかし、こうした公私の二分法と宗教の私事的領域への押し込めが普遍的な正当性を持ちえないことは、もはやことさらに言い立てるまでもない。ローティはどこで「間違った」のだろうか。本発表ではこの問いを、ローティのプラグマティズムの参照元の一つであるジェイムズにさかのぼることによって考える。

 

ローティの真理概念批判と公私二分法

 ローティは『哲学と自然の鏡』や『プラグマティズムの帰結』といった著作で、従来の哲学が追い求めてきた「実在」「本質」「真理」といった概念を脱構築の方法を用いて批判し、それらを問うことは無意味な疑似問題であることを宣言する。書名にも含まれる「自然の鏡」とは、従来の認識論や言語哲学が前提してきた、私たちの心、精神、命題やテキストなど、何であれ人間の主観的な認識に関わるものが、その「外」にある実在、本質、「世界の実際のありよう」に対応し、これを正確に反映していることが真なる認識だとする考えの比喩である。プラグマティストたちはこうした前提を破壊した。彼はジェイムズを、従来の実在と真理概念を批判しそれを無効化した人物と捉え、自らの陣営に立たせる。ローティによれば、真理認識の手段とされてきた表象、直観、概念、命題は、特定の歴史的文脈、状況のなかで生じる偶発的で暫定的なものであるから、それにより絶対的で普遍的な真理、本質をつかむことはできない。

 『偶然性・アイロニー・連帯』では、こうした態度が基盤となり、形而上学や宗教といった絶対的なものに関する営みは、私的なものにのみ関わるべきであるとするローティの公私二分法が導出される。彼は自らの立場を「リベラル・アイロニスト」と表現して、次のように言う。実在や神などに関する言説や信念はすべて歴史性や時代性に依存する偶然的なものであって、私的にそれらを奉じたり信じたりすることはかまわないし、それはそれで「自己創造」としての価値をもつものではあっても、公共空間において討議の対象となりうるようなものではない。それに対して、正義にかなった政治の在り方や道徳は「相互の調停」、「自由で開かれた闘い」によって定められていく公共的なものである。したがって、この二つは決して混ぜ合わせるべきではない。こうしたローティの立場の背後には、彼のプラグマティズム解釈とそれへの賛同がある。このプラグマティズム解釈が妥当であるかどうかを、ジェイムズのテキストから検討する。

 

ジェイムズのプラグマティズムの真理論

 ジェイムズのプラグマティズムの要諦は、真理をすでにできあがった永遠不変のもの、人間が科学的あるいは哲学的な探求を通して発見するものと捉えずに、真理とは人が観念を「真化する」ことによってはじめて真理として成り立つものであり、人は「真化」の過程を通して観念を真なるものにする、真理を作り上げるという能動的な役割を担うと考える点である。ジェイムズによれば、私たちは観念によって引き起こされる行為を通じて、ある一定の方向へと導かれてゆき、その道行きにおいて経験されたもろもろの出来事の内に、あるいは導かれた先の終点に、その観念に対応する目的を見出すことができれば、そのときはじめてその観念は真となる。この一連の過程があくまで具体的な経験において生じるという点が重要である。観念とその観念が指す実在とを媒介するこの過程の細部を、私たちは経験可能なこの世界の中だけで十分に、一つ一つ辿ってゆくことができ、あえてその外に出なくともよい。

 ジェイムズにとって実在とは、私たちが考慮しなければならないもの、強いて無視すれば私たちの行為が失敗してしまうものである。私たちは、自分には如何ともしがたいさまざまな制約を受けつつも、過去に形成された無数の真理を利用することで行為し、時には実在とのより良い接触を可能にする新しい真理を作る。それは人類の遺産として真理の集合体に加えられ、そうすることで、それをまた他の人が使えるようになる。真理としての位置を獲得し保持するためには、すでに存在している無数の真理との整合性や、その観念が現実世界で有効であることの実証が必要となる。他の諸真理との対決や実験を経て、うまくいかなければ、その真理が廃棄されたり変更を加えられたりすることがあるだろうし、逆に既存の諸真理が修正を迫られることもあるだろう。いずれにせよ諸真理が構築する体系は漸次的ではありながらも変化し成長していくものと考えられている。

 

ジェイムズにおける宗教的真理

 プラグマティズムが、何であれ私たちに及ぼされる作用や効果によってその実在性を肯定するものであるなら、それは科学的な文脈において、日常的な文脈においても、宗教的な文脈においても同様である。では宗教に関わる観念が真として確かめられるのは、どのようにしてであろうか。通常、神秘家の体験から発せられた言葉や、それをもとにした教義や儀式、宗教的な観念や言説などは、非科学的であり客観性を持たないものとして真理から排除される。しかし、ジェイムズのプラグマティズムはある言説や観念の真偽判定において、それが科学的であるか宗教的であるとかいった区別を行うことはしない。むしろ、その区別以前のところで真偽判定が行われる。

 とはいえ、ジェイムズは宗教的な言説を無条件に正しいもの、科学とは無関係に真偽判定を行えるものとは考えない。ジェイムズは神秘家たちの証言を傾聴する価値があるものとして取り扱うが、検証していない段階では、あくまで尊重すべき観念以上のものではなく、非宗教的な観念と同じように、経験の網の目、過去の諸真理との適合性によって、真偽が確かめられるべくテストを待つ存在と捉える。『信じる意志』でジェイムズは、信仰を「作業仮説」として捉えており、その信仰があたかも真であるように宗教生活を送ることによってそれを検証し、真偽を確かめることができると述べる。ジェイムズによれば、何らかの宗教的な観念が真であるとわかった後で、それを信じるという仕方は有効ではない。経験のなかで実際に機能させてみることによってしか、信仰が真であることを確かめることはできないばかりか、そうしなくては、信仰は真になることができない。

 

ジェイムズのプラグマティズムと宗教の自由

 このようにジェイムズのテキストを丹念に読んでいけば、公と私、世俗と宗教を分けることは、プラグマティズムの原理に忠実ではない態度であることが分かる。何であれ観念を真化することは、そもそも共同的な営みである。諸真理の体系に組み込まれるために提示された宗教的観念も、それを信じる人間の実践によって繰り返し検証され、今後も採用すべき真理として維持されるのか否かが判別されることになる。時には科学の進展により、時には世俗的な価値観の変更により、「時代に合わない」として捨て去られるものもあるだろう。それでも、時代の試練を経てなお残り続ける宗教的観念が、現在、教義や信仰箇条、儀式、儀礼と呼ばれるものだと捉えることができないだろうか。

 「宗教の自由」という視点からすると、ジェイムズのプラグマティズムは保守的なものにならざるを得ない。とは言え諸真理の体系は、それらを真なるものとして成立させている実在を背景にして、ゆっくりとではあっても時々刻々と変化する。確かにジェイムズのプラグマティズムによって宗教の自由を考えることは、マジョリティの自浄作用、自己修正機能に対してやや楽観的であるし、宗教の多様性にとっては不十分なものであるかもしれない。しかしこの不自由さ、流動性の低さは、いわゆる「カルト宗教」を排除できることと表裏一体である。ジェイムズにとって、宗教を私事へと追いやることは、宗教的観念の真偽を検証する場をなくしてしまうことである。宗教的信念の正当性を検証するためには、あるいはそれをより良いものへと鍛えあげていくためには、それを私事へと押し込んで対話すべき対象から外すのではなく、他のさまざまな宗教的信念、科学的な仮説、世俗的な価値などが飛び交う公共的な空間において、その信念を生きなければならない。これが実在とそれに対応するものとしての真理を捨て去らなかった、ジェイムズの「プラグマティズムの帰結」である。

 

コメントと全体討議

 山根氏による上述の研究発表の後、氣多雅子氏がコメントをおこなった。氣多氏はまず、ジェイムズが活躍した20世紀初頭、ハイデガーや西田幾多郎も活躍したが、ジェイムズのプラグマティズムは、その時代の問題意識を反映していると思われる。またジェイムズもローティも、近代市民社会とともに成立した公共空間の意義を認めていると述べた。公共空間では、宗教の真理性は自由な討議によって鍛えられるが、宗教が私的領域へ押し込められると、宗教が自由な討議の主題にはならなくなってしまう。ところが、20世紀から21世紀へと時代が変わり、公共空間の性格も規模も大きく変化し、インターネットやAIの普及によって、これまで私的領域であったものが公共にさらされ、全世界に公開されている。公的空間や私的空間の性格も変わってきており、宗教の自由についても再考する必要がある。

 そのことをふまえて考えると、ジェイムズの思想は柔軟性をもっていると氣多氏は述べた。さらに宗教が公的空間に出ていかないと、宗教の観念の真理性は検証されない、というジェイムズの主張にも賛意を表した。ただし、宗教的観念の真理性について、今日では、自己が置かれている状況が変化してきているので、自己と神との対話だけでは検証できない。したがって、その対話に、世界を取り込んでいく必要があるだろうとコメントした。そのように述べたうえで、氣多氏は次のような問いを提示した。プラグマティズムの道具的な性格に連関して、山根氏は「生に有利な行為」、および「真理は人間がより良い、広い意味で有益な行為のためという道具的な価値を有して」いると述べたが、「広い意味で有益な行為のため」と言えば、有益な行為が真理よりも上位の価値をもつことになる。また信仰を「作業仮説」として捉えると、それでは科学的な知見に到ることはあっても、宗教的信仰には到らないのではないかと思われる。さらに根本的な問いとして、ジェイムズが言う「経験」とはどういうことなのか。またプラグマティズム的な思考で、現代文明の限界が問われる諸課題に対応できるのだろうか、との問いを提示した。

 以上のコメントと問いに対して、山根氏はまず、現代では、宗教の自由の内実が変わってきている点について、全く同意すると述べた。ジェイムズは科学から宗教を守るという意味で、宗教の自由を論じたが、インターネットなどが普及している現代社会では、宗教の自由も根本的に変化している。この点については、今後とも検討していきたいと山根氏は述べた。さらに「生に有利な行為」などの有益性に関する問いには、ジェイムズが科学とか感覚経験的なことをふまえて話していることもあるので、こうした表現になっている。またジェイムズは幸福とか宗教的救済という言い方をするが、有利なものについては具体的に言及していない。生の有益性が上位の価値をもつのは、氣多氏が指摘したとおりであり、今後さらに検討していきたいと回答した。また「作業仮説」としての信仰については、ジェイムズは科学をモデルに考えていることは間違いないが、科学の概念を広げるかたちで、哲学や宗教を捉えようとした。科学的に見えるところはあるが、それが自然科学とどのように違うのかを示す必要がある。その点についても今後の研究課題にしたいと述べた。さらにジェイムズは世界を改善していくという「改善論」を説き、神々の協力をもとに世界を良くしていくとは述べたが、真理を逆方向に進めていくという議論の方向性はないので、それはジェイムズのプラグマティズムの短所であると回答した。

 その後、研究プロジェクト委員長・澤井義次氏の司会によって全体討議がおこなわれた。まず、宗教と科学の関わりについて、次のコメントが提示された。ジェイムズは宗教を科学に近づけようとしたばかりでなく、科学を宗教に近づけようとしているところもある。科学が「うまく働く」ところを基準にしているので、科学の実証性も宗教の実証性もプラグマティズム的である。信仰を作業仮説として捉えるのは、外から見てのことであった。ローティは言語論的転回という立場が先にあって、そこからジェイムズを捉えており、ローティの宗教論は、ジェイムズよりもデューイに依拠しているように思われるとのコメントが提示された。そのコメントに対して山根氏は、ジェイムズとローティの議論は全くかみ合っていないので、両者の対話は難しいと述べた。また山根氏がどういう立場から、ジェイムズの宗教論を論じているのかとの問いが提示された。その問いに対して山根氏は、自分には特定の宗教体験はないが、宗教学を学ぶうえで、世俗化された社会で、宗教を語る余地を残したいという思いがあると回答した。さらに宗教の自由に関する議論でも、宗教をとらえる視点が絞り切れていないのでは、とのコメントがあった。そのコメントに対して山根氏は、宗教が人間の根源的な在りようであると考えており、ローティが宗教を私的領域に押し込めるのとちがって、宗教を学問としての言葉でいかに語るのかを模索していると述べた。

 さらに、ジェイムズは限定的真理を説くので、宗教が癒しや慰めを与えてくれるかぎり、それは真理だと言うが、宗教を信仰している人々の神を私的領域では認めたとしても、公的領域では認めないのかという問いが提示された。その問いに対して山根氏は、ジェイムズは真理に程度差を認めており、それが真か偽かという二択ではなかった。神によって慰めを得ることができれば、そのかぎりでは真理であると回答した。またジェイムズの著書『宗教的経験の諸相』では、「より超えたもの」(the more)へのコミットメントは、ジェイムズの宗教経験論の本質であるが、その議論は信仰の作業仮説という議論を超えているのでは、との問いも提示された。その問いに対して山根氏は、ジェイムズは神秘家にとって、その体験内容は疑いようのないもので、それはもはや作業仮説ではない。ところが、それ以外の宗教者には、いまだ作業仮説であると言えるだろうと回答した。最後に、次のような問いも提示された。それは、たとえば、クルアーンを聖典として信仰しているムスリムにとって、その書物が真理であるというよりはむしろ、その真理性はムスリムの心にある、と宗教学者のウィルフレッド・スミスは説いたが、スミスのこうしたものの見方はジェイムズに近いように思われる、との問いであった。その問いに対して山根氏は、そのように言えると回答した。ただし、その場合も、クルアーンを唱え、日々、イスラームの生活をするなかに、その人に宗教的な喜びが得られるならばという条件が付くと回答した。

 以上のように、現代日本社会において、宗教をいかに語るのかという宗教研究にとって根本的な研究テーマをめぐって、充実した内容の研究発表に続いて、活発な全体討議がおこなわれた。

第4回研究会

日時
2024年7月19日(金)
場所
オンライン
講師
深谷耕治氏
演題
W・R・ラフルーアの和辻論
コメンテーター
芦名定道氏(関西学院大学教授)

 

深谷氏の研究発表

 深谷氏は配布資料に沿って研究発表をおこなった。本報告では、そのときに提示された配布資料に沿って、研究発表の内容を報告する。

 W・R・ラフルーア(19362010)は、日本仏教の研究や『水子─〈中絶〉をめぐる日本文化の底流』(1992)で知られたアメリカの日本研究者であるが、英語圏における和辻哲郎研究の主要人物の一人でもある。深谷氏は、本研究発表において、ラフルーアの和辻論を概観し検討することで、英語圏での和辻受容の一端を示しつつ、「和辻をいかに読むか」について考察した。

 

1、ラフルーアが見出す『鎖国』の特質

 和辻の著作には従来、批判が多々なされているが、その中でラフルーアは、和辻の思想的な可能性を掘り起こす試みを行っており、その中でも「廃墟に立つ理性-戦後合理性論争における和辻哲郎の位相」(1988)では、和辻の『鎖国』の思想的な位置づけについて論じている。

 『鎖国』のテーマは、アジア・太平洋戦争の敗北によって露呈した日本の「欠点」を問うというものであった。和辻によれば、それは「科学的精神の欠如」に求められ、さらには江戸時代の日本の鎖国政策に起因する。すなわち西洋では近世にかけて「科学的精神」や「合理的な思索」は発展してきたが、日本では鎖国政策によってその発展が阻害されてきたことが、日本の敗戦を招いたとされる。日本にも未知なるものに対する好奇心や世界へと視界を広げていくような探求の精神は存在した。しかし、為政者の側にそうした精神を実現する見識と実行力が足りなかったと和辻は説く。

 このような『鎖国』に対して、ラフルーアはその長大な歴史叙述の説得性ではなく哲学的な示唆に関心をもつ。まず、ラフルーアによれば、日本の敗戦という事態に直面して、和辻の同時代の思想家(たとえば田辺元)は日本人の生活の根本的な変革を求めた。日本人の「合理性の構造」に何か根本的な「欠陥」があるという見方から、キリスト教へ改宗すべきという意見や、たとえば日本語に代えてフランス語を国語にすれば本来的に「合理的な」言語が永遠に日本の言説の媒体となることが保証されるだろう、という主張まであったそうである。

 しかし、そうした見解に対して、『鎖国』の応答の仕方は、問題は日本人の「精神的および制度的生活の基本的構造」に関わるものではなく、歴史的環境の特殊な要因の組み合わせによって説明されるべきであるという見方を示しているとラフルーアは見て取る。そして、和辻はそのような説明を「思索能力」(理性)と「思索活動」を区別することによって果たそうとした。すなわち、『鎖国』では、日本の敗戦に関して日本の「非合理性(不十分な合理化)」を示すような「合理性の理論」に依拠するのではなく、思索能力と思索活動の組み合わせ(積極的な知識とその世界への適用)を問題とした歴史叙述が試みられており、西洋の「理性」に対して日本の「理性」に何か「欠陥」があったのではなく、その活動の範囲が極度に制限されていた(鎖国状態にあった)ことが問題であったと説明される。

 ここで注意すべきことは、ラフルーアはその議論の中で、日本の社会変動をめぐって二つの近代化を区別していることである。一つは、ラフルーアが「合理性の理論」として示すような「合理化としての近代化」であり、具体的にはマルクスやウェーバーの理論が挙げられている。もう一つは「知と力の結びつきとしての近代化」と呼べるものであり、フランシス・ベーコンの思想に関連づけられている。そして、ラフルーアの読解では、『鎖国』に見られる和辻の歴史叙述はベーコン流の近代化に通じている。実際、『鎖国』の先の引用文でも、世界的な視界を広げる動きの思想的な起点としてベーコンの名前が挙がっていた。和辻にとって「真に近代的」と考えられていたのはベーコン哲学であったとラフルーアは説く。

 戦時中に、海軍に対して行われた講演「アメリカの国民性」(1943)では、ベーコンは「敵国」であるアメリカの特性(国民性)を示す上で取り上げられており、議論の流れ上は、批判対象であった。しかし、ラフルーアの解釈では、そのようなベーコンの登場のさせ方は、抑圧された状況下でなされた講演の中の一種のレトリック・カモフラージュであった。つまり、和辻が「本当に」強調させたかったのはベーコンの精神であり、その重要性を軍・政府関係者に「示唆」したのである、とラフルーアは説く。そして、和辻のこのようなベーコンに対する「隠された」評価は戦後の『鎖国』の主旨に合致し、和辻は戦中・戦後と思想の一貫性を保持していたと主張される。

 さらに、ラフルーアは、以上の読解から見出された『鎖国』―そして「アメリカの国民性」―におけるベーコンへの言及を一つの手がかりとして、和辻の洞察を今日の思想状況に結びつけるべく、合理性をめぐるリチャード・ローティの議論を参照する。ラフルーアは、ローティに拠りつつ、今日では、社会的文脈から切り離されるような「合理性の理論」ではなく、知と力をめぐるベーコン流の思考が求められていると論じる。 

 

2、和辻研究の文脈で

 このようなラフルーアの議論の背景には、ロバート・ベラーの和辻批判の影響が読み取れる。上記のようにラフルーアの『鎖国』読解では、「合理化としての近代化」と「知と力の結びつきとしての近代化」が示され、和辻が後者の立場にあったことが述べられているが、このような和辻像の提示は「和辻による合理性理論への批判」の「発見」を意味するだけではなく、「合理性理論をふまえた和辻解釈への批判」も含まれると考えられる。そして、和辻研究の文脈では、その代表的な論考がベラーの和辻論であったといえる。

 ベラーは「和辻哲郎論」(1965)の中で、和辻の著作を日本の「文化的個別主義 cultural particularism」という問題において取り上げていく。ベラーによれば、日本には自国の文化に対して「unique」「different」とみなす感情が広く行きわたっており、そして、そのような感覚が政治的・社会的な領域で具体的な運動に結びつくとき、重大な意味を持つようになる。その最も顕著なかたちが、アジア・太平洋戦争へと向かった「天皇制ファシズム 」であり、和辻の思想はこのような日本の文化的個別主義に論拠を与えたのであった。ベラーの議論には、『徳川時代の宗教』(1957)でも前提にされているようなウェーバー流の「呪術からの解放」(「合理化としての近代化」)の枠組みが読み取れる。そして、そのような枠組みにおいて、天皇制は呪術的・非合理的な要素を残存させた制度と捉えられ、その視点から、和辻の議論も解釈されているといえる。このようなベラーの議論を受けて、ラフルーアの和辻読解はベラーが依拠している解釈の枠組みそのものを相対化する試みであったともいえるだろう。

 さて、このようなラフルーアの「読み」は野心的で示唆に富むものであり、以上見て来たように、和辻研究(とくに英語圏)において一定の意義を持つといえる。ただし、その読解はやはり論点先取の読み方ともいえるだろう。ラフルーアは和辻の著作に「知と力の結びつきとしての近代化」を見出そうとしたが、やはりローティの議論ありきで和辻の著作にアプローチした感は否めない。その上で、改めて問いとして浮上するのは、「そもそも和辻自身は「近代」や「合理性・合理化」について、どのように考えていたのか」である。ラフルーアの議論では、「近代」や「合理化」という問題が英語圏も含めた和辻研究や今日の思想にとっても大きなテーマの一つであることは示されていた。また、周知のように「近代の超克」や「近代的思惟」(丸山真男)など、和辻の同時代でも「近代」は大きな問題系を形作っていたことは確かである。和辻にとっての「近代」とは何かという問題は、和辻研究や日本思想史にとって一つの大きな問いといえる。

 最後にそのことと関連して、一つだけ素朴な疑問を提起しておきたい。なぜ和辻の著作にマックス・ウェーバーは登場しないのだろうか。ウェーバーは「近代化」や「合理化」などの概念を彫琢した本人であり、先に見たように日本の研究者の中でも大きな影響力を与えていた。そうしたウェーバーの業績に対して、和辻自身がほぼ何も言及していないのはなぜなのか。和辻の著作における「ウェーバーの不在」という視点も、和辻にとっての「近代・合理化」を考える一つの手がかりとなるかもしれない。

 

コメントと全体討議

 深谷氏の研究発表の後、芦名定道氏がコメントをおこなった。まず、芦名氏は深谷氏の議論のポイントを次のようにまとめた。深谷氏によれば、ラフルーアによる和辻の近代化論解釈では、和辻は「思索能力」としての理性と「思索活動」を区別し、思索能力としての理性が具体的にいかに活動するのかという視点から近代化を考えたとされる。さらに日本では、思索の活動を具体化するに当たって、その歴史的な環境すなわち「鎖国」に問題があったと捉えたところに、和辻の鎖国論のポイントがあったとラフルーアは把握した。ラフルーアは、和辻がポテンシャルとしての理性能力とその現実化(アクトゥス)としての理性の活動の組み合わせで、知と力が結びつくところに近代化を捉えたと解釈した。このようにまとめた上で、芦名氏は、ラフルーアが言うように、ロバート・ベラーの和辻批判が依拠する解釈の枠組みそのものを相対化する必要があると指摘し、和辻の著作に、どうしてマックス・ウェーバーが登場しないのかという深谷氏の疑問について対しては、芦名氏は和辻が1920年代にドイツに留学したとき、当時の学問論論争(歴史学に基づく近代的学によって生の現実は把握できるか)を肌で感じて、ウェーバーが論敵(近代的学の立場)であるとの感覚をもったのでは、と述べた。

 このようにコメントした後に、芦名氏は次の問いを提示した。和辻は講演「アメリカの国民性」において、物質文明は自然を支配する特徴をもち、それは文化と区別されると言う。しかし、「自然を支配する」という視点から文明を捉えるとしても、古代でも近代でも、「自然を支配する」という意図を有するという点では本質的に違いはないだろう。もし違いがないのであるとならば、近代のメルクマールは何なのか。このように考えれば、近代をめぐる論点は自然の支配から合理性に戻ってくることになり、近代化には、合理性と「知と力の結びつき」との両方が必要になるのではないだろうか。この点について、和辻の議論とその議論に関するラフルーアの解釈、さらに深谷氏はいかに理解しているのか、と芦名氏は尋ねた。

 以上の芦名氏のコメントと問いに対して、深谷氏はラフルーアが捉えた「思索能力」と「思索活動」の区別について、和辻自身は『鎖国』において、ラフルーアほどは概念化していなかったと述べた。また「思索能力」については、和辻は日本にも世界へ視界を広げていく探究の精神は存在したと考えたが、為政者の側にそうした精神を実現する見識と実行力が足りなかった。その点では、織田信長は評価されるが、豊臣秀吉や徳川家康は評価されていない。そうした違いを、和辻自身は可能性と現実性の区別としては捉えていなかったと述べた。さらに和辻の著作に、どうしてウェーバーが登場しないのかについては、和辻のドイツ留学とその影響を考えると、芦名氏が指摘するように考えられると応答した。最後に「自然を支配する」ことに関する芦名氏の問いについては、深谷氏は当時、「文明」と「文化」が区別され、物質的な「文明」が「文化」の視点から批判されたと述べた。さらに近代化をめぐる和辻の議論とその議論に関するラフルーアの解釈、さらに深谷氏自身の解釈については、芦名氏が指摘するように、深谷氏自身も当発表の進め方にも起因するが、循環論法的な議論になっていると付け加えた。

 その後、研究プロジェクト委員長・澤井義次氏の司会によって、全体討議が活発におこなわれた。まず、ラフルーアの和辻理解について、ラフルーアが宗教学者であり、思想にはあまり強くなかったと考えられるとのコメントが述べられた。またベラーは、ウェーバーの枠組みを援用して『徳川時代の宗教』を著したが、日本の近代化について、和辻が適確に捉えていなかったのではないかとの意見も提示された。和辻はキェルケゴールやハイデッガーの実存主義を日本に紹介し、個人の内面性を強調したが、そのことからも、和辻哲学の傾向はウェーバー社会学と異なっていたと考えられるとの意見も提示された。また近代化については、従来の議論では、ヨーロッパの植民地支配に関する言及が抜け落ちていることも指摘された。最後に、和辻哲学における「間柄」の倫理性について、深谷氏がいかに理解しているのかとの問いが提示された。その問いに対して深谷氏は、近年の和辻研究では、他者について、部分的な理解に先立って「全体が何となく分かっている」ことを前提とした新たな「間柄」の解釈が提示されているが、そうした解釈に関心を抱いていると回答した。

 以上のように、おもに和辻哲学と宗教研究の関わりをめぐって、活発な質疑応答がなされ、充実した内容の研究会であった。