研究プロジェクト

研究プロジェクト

2001年度

「エコロジーと宗教」

第1回研究会

日時
2001年6月28日(木)18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第3会議室
「自然(しぜん)と自然(じねん)」

徳永道雄(京都女子大学)
コメント:小原克博(同志社大学)

 

 徳永氏はまず、「自然(しぜん)」と「自然(じねん)」という2つの語の意味を比較検討し、それらの意味の違いを明らかにした。そのうえで、東洋の文化や生きかたの根底に流れている自然に対する親密さを指摘した。また、老荘思想における無為自然の思想や、道元や一遍また親鸞などの仏教思想にみられる自然観に言及しながら、人間の計らいによって自然に手を加えることで、自然が本来の自然ではなくなってしまう、という老荘思想や仏教思想に共通した東洋の自然観を明らかにした。さらに明治以前の日本には、ネイチャー(nature)の翻訳語としての「自然」(しぜん)の考え方、すなわち、自然を人間存在と切り離してとらえる考え方はなかったが、今日、伝統的な自然観こそ、現代のエコロジー的発想に生かすために復活されるべきであると述べた。
 それに対して、小原氏は、自然そのものと人工的な自然が混在している現代世界において、現代人がはたして自然そのものに対する考え方を復活することができるのだろうかとコメントした。また、キリスト教神学はこれまで、自然を対象化しすぎたきらいもあるが、今日のキリスト教では、東洋の自然観を取り込みながら、従来の考え方に対する根本的な見直しが行なわれていると述べ、現代キリスト教の動向を紹介した。
 その後、全体討議に入り、さまざまな意見が述べられたが、おもな意見として、つぎのようなものがあった。西洋における「自然」観も、仏教における「自然」観も、これまでかなり変遷してきたので、その概念的意味の変遷をもっと厳密に吟味する必要がある。また、日本は明治以後、西洋の科学技術を導入したが、西洋の発想と類似した考え方が日本になければ、科学技術を受け入れることができなかったであろう。日本において、西洋の考え方とよく似た考え方があったとすれば、それはどのようなものであったのか。また、自然破壊がどういうところから生じたのかについて検討すべきである。さらに西洋において、キリスト教は決してひとつではなく、西洋の自然観を考える場合、西洋とキリスト教を同定することはできないとの意見が提示された。

第2回研究会

日時
2001年7月26日(木)18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第2会議室
「西洋における自然概念一その歴史と諸問題一」

シュペネマン・クラウス(同志社大学)
コメント:宮下晴輝(大谷大学)

 

 シュペネマン氏は、西洋における哲学とキリスト教神学を中心として、「自然」概念の変遷について論じた。「自然への支配」の概念は11―12世紀になって、人間が農業技術などの技術をもつようになった段階で生じた。また17世紀になると、科学技術によって、人間はアダムとエバの罪によって失われた「楽園」を取り戻すべきである、という進歩主義的な解釈がみられるようになった。さらに古代と中世の西洋において、自然はロゴスと神によって規制されていたし、また、人間の社会的位置も自然によって左右されていた。ところが、科学技術の発展にともない、自然法則が発見されると、ロゴスと神を自然から「追い出す」ことになった。つまり、近代の機械論的自然観や、デカルトやカントなどによって提示された人間観が強調されるようになった。最後にシュペネマン氏は、「責任」や「自然の権利」などのエコロジーの代表的な概念についても言及した。
 それに対して、コメンテーターの宮下氏は、近代の機械論的自然観が成立する以前、西洋において、「自然」はどのように考えられていたのかを問うことによって、西洋における自然観の特質を確認した。引き続いて行なわれた全体討議では、西洋における自然観の変遷が、さまざまな視点から論じられた後、現代のエコロジーの問題に対して、キリスト教が責任を担っているのかという問いが提示された。その問いに対して、シュペネマン氏は、17世紀に始まる近代の機械論的自然観とともに、キリスト教も西洋文化のひとつであるかぎり、環境問題に対して責任があると言わざるをえない。ただ、その時代において、人間が自由を獲得するために、そうした自然科学的な考え方が必要であったと述べた。
 さらに、現代文明においては、宗教と自然と人間がそれぞれバラバラになっているが、それら3つをひとつに考えて、自然破壊を食い止めようとの考え方は西洋にないのかどうかという問いが出された。それに対して、シュペネマン氏は神的存在を自然に戻さないかぎり、自然破壊は食い止められないが、それは神学の課題であろうと述べた。また、現代の環境破壊は、人間の優越性を説いてきた教育にも問題があったのではなかろうかとの意見もあった。

第3回研究会

日時
2001年8月9日(木)18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都 5階 第3演習室
「『天地の間』という自然観:遺体から遺伝子まで」

三宅善信(金光教泉尾教会)
コメント:花岡永子(大阪府立大学)

 

 三宅氏は、いわゆる「土着の宗教」の視点から、日本文化の諸要素に言及しながら、日本のアニミズム的自然観を論じた。まず、日本神話におけるスサノヲの意味や、三内丸山遺跡や諏訪大社御柱祭における「天地を繋ぐ柱」の意味を論じ、また、北東アジアの「有限の世界認識」や風土の影響によって形成されたわが国特有の自然観、すなわち、「自然の再生力に期待する日本人の意識」に言及した。さらに、人間の身体のもつ実存と所有という二重性を踏まえて、自然によって生かされている身体のあり方、「いのちの乗り物」としての遺体と遺伝子の意味について述べた。そして最後に、少なくともわが国では、自然の力を畏れ祀った縄文人から現代人にいたるまで、日本文化に共通するアニミズム的世界観を踏まえてこそ、「リアリティを有したエコロジカルな宗教倫理」について論じることができると結論づけた。
 それに対して、コメンテーターの花岡氏は、三宅氏の研究発表を踏まえて、まず伝統的な神道にみられるアニミズム的世界観が今後いっそう自覚化され分析的に提示されるべきであるとコメントした。また、三宅氏のさまざまな論点を整理したうえで、神道における神の「超越性」、および心身観について問いを提示した。それらの問いに対して、三宅氏は山川草木が神として信仰対象になるが、そういう神はこの現象世界に内在的であって超越的ではない。また、神道でいう心身は西洋的な二元論でなく、意味付け以前の「身」であると述べた。
 引き続いて行なわれた全体討議において、この研究会で話題にしている神道とは「鎮守の森」などによって象徴される伝統的な神道であることが確認された。また、アニミズム的世界観は神道ばかりでなく、仏教(たとえば、本覚思想)にもみられるが、現代人がアニミズム的なものへ回帰すべきであると言うだけでは、単なる俗信や生命の讃美になってしまう危険性があるとの意見が述べられた。さらに、現代社会はとくに経済原理にもとづいて動いているが、環境問題について、どのように社会へ訴えることができるのかどうかを考えるべきであるとの意見も提示された。

第4回研究会

日時
2001年9月27日(木)18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第2会議室
「自然と人間のつながりー環境問題の現状ー」

佐藤孝則(天理大学おやさと研究所)
コメント:野村伸夫(京都女子大学)

 

 佐藤氏は、まず現代社会が直面している深刻な環境問題を3つの問題群、すなわち、グローバルな問題、ローカルな問題、身体内の撹乱に分けた。グローバルな問題とは地球温暖化、オゾン層破壊、酸性雨、森林破壊、野生動物の絶滅、環境難民などであり、ローカルな問題とは排ガス・騒音、干潟埋め立て、廃棄物処理、水質汚濁などである。また、身体内の撹乱は環境ホルモン、遺伝子組み換え、クローン人間、薬剤耐性菌などによって引き起こされると考えた。これらの分類を踏まえて、空間の視点から、「環境」を体内環境、人間環境、自然環境、地球環境、宇宙環境の5つに大別し、環境問題の本質をとらえた。
 法整備の視点から、わが国における環境政策の変遷を辿りながら、昭和62年までの日本は国内の環境問題だけを考慮に入れた政策を実施していたことを指摘した。また、二元論的な近代科学が自然と人間を分けて考えるのに対して、日本人の伝統的な自然観・環境観が風土性の視点から、自然と人間をあえて分けないところに特質があると論じた。さらに、いくつかの具体的な環境問題に言及した。たとえば、ニホンザルとタイワンザルの混血ザルに対する対処のしかたをめぐる議論、すなわち、動物の研究者グループがニホンザルという固有種を保存する観点から、混血ザルの安楽死を主張しているのに対して、動物愛護団体は種ではなく個体の保護を主張している現状について述べた。また、野生動物の体内環境にみられる性の撹乱という問題を報告し、もしもこれらの問題を放置しておけば、近未来において、人類が性の撹乱という環境問題に直面するであろうと述べた。
 佐藤氏の研究発表に引き続いて、コメンテーターの野村氏は、佐藤氏が自然と人間を分ける二元論的な視点から自然をとらえているのか、あるいは、風土性の視点からとらえているのかという問いを提示した。その問いに対して、佐藤氏は二元論的な視点を否定することなく、どちらの視点にも立っていると答えた。また、混血ザルの対処のしかたについて、野村氏は佐藤氏みずからの意見を尋ねた。それに対して、佐藤氏は研究者の視点に理解を示しながらも、混血ザルの保護に費用がかかるという理由で、混血サルとタイワンザルを安楽死させるという議論に対して、生命論の立場から疑問を呈した。
 その後、全体討議に入り、さまざまな意見が述べられたが、おもな意見として、つぎのようなものがあった。西洋における二元論的な自然観は今日、厳しく批判されているが、私たちにとって重要なのは、東洋的な自然観と西洋的な自然観のどちらかを二者択一することではなく、二元論的な視点が自然の一部だけに適用できるということを認識することである。また、日本の風土に添った自然観はアニミズム的なものであるが、仏教にも「草木成仏」説があるように、よく似た思想がある。そうした意見を踏まえて、親鸞の「自然」(じねん)の思想とその理解について、活発な討議が行なわれた。さらに、人間がこれまで自然に対してかなり手を加えてきたことを踏まえて、今後どのような未来を選びとっていくのかが重要な課題である。最後に二元論的な視点について、先端科学はすでに単純な二元論を超えて展開している、という意見が提示された。

第5回研究会

日時
2001年11月1日(木)18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第2会議室
「宗教的自然観の多様性からエコロジーへ」

研究発表:芦名定道(京都大学)
コメント:佐々木恵精(京都女子大学)
司会:澤井義次(天理大学)

 

 芦名氏は、これまでの研究会における討議、および宗教的自然観の多様性を踏まえて、宗教が近代科学の「自然」概念との接点を確保することができる「自然の宗教哲学」の構想を提示するとともに、宗教思想、とくにキリスト教思想の観点から、われわれが近代の機械論的な自然理解の枠組みを克服し、エコロジーの問題を解決するために、宗教間対話をとおして、より多くの宗教の知恵を結集すべきであると論じた。
 まず、環境危機の問題を「実存的疎外(罪)の一特殊形態」としてとらえ、リン・ホワイトの問題提起、すなわち、旧約聖書の創造論が環境破壊に対して責任を負っているとの議論を批判した。つまり、環境破壊が問題化したのは18世紀の産業革命以後のことであり、ホワイトの議論は短絡的であると、芦名氏は述べた。また、近代における「欲望の肥大化」は人類が後戻りできない欲望の非自然化の状況を生み出してきているが、どの宗教も欲望をコントロールする知恵を伝承してきたので、現代はそうした宗教の知恵を生かすべき時代であると述べた。
 さらに、キリスト教は「人間の特殊性」を強調しているといわれるが、芦名氏は最近の旧約学の視点から、「創世記」(1:26,28)における「地の支配」とは、「神の像」(imago Dei)としての人間が賢明にふるまう責任を与えられていることを示している。また、人間が「土の塵」(創世記 2:7)からできているとの教えは、他の生命体との連続性を示すものであると述べた。また芦名氏は、人間の救いは他の生命体の救いであり、自然環境の問題を抜きにして、人間の救いを考えることはできないと述べた。
 最後に、エコロジーという共通の課題を解決するためには、キリスト教と自然科学の対話も必要であるし、また、キリスト教以外の宗教の知恵も必要であると述べた。
 芦名氏の研究発表に続いて、コメンテーターの佐々木氏は、キリスト教のものの見方が、多くの点において、仏教の教えと共通していると指摘し、さらに、つぎの3点について尋ねた。つまり、キリスト教における「欲望」の意味、芦名氏のいう「自然の宗教哲学」の具体的な内容、さらに宗教と自然科学の対話のあり方について意見を求めた。それに対して、芦名氏はエデン神話における堕罪に触れながら、キリスト教における「欲望」の意味を説明し、欲望も神によって創造されたものであり、それを全く零にすることはできないと述べた。また、芦名氏はいわゆる「自然の宗教哲学」によって、宗教と科学がかみ合って、存在論的な意味を探究する基盤を構築したいと述べた。さらに、宗教と自然科学の対話はなかなか難しいが、継続的に行なっていく必要があると述べた。
 その後、全体討議に入り、さまざまな討議が行なわれたが、おもな内容はつぎのとおりである。まず、ホワイトが環境問題を論じる際に、キリスト教の創造神話を持ち出したことは、思想史的にも不適切である。また、「科学・技術」について、「科学」それ自体は価値中立的であるが、科学の成果を役立てようとする「技術」がさまざまな害悪をもたらすと言えないかとの問いが提示されたが、それに対して、芦名氏は両者を理念的に分けることは可能であるが、実際には科学と技術は一体であり、両者を分けることは不可能であると答えた。さらに、宗教と科学、諸宗教間の対話のもつ影響力について問いが出されたが、それに対して、宗教の立場から発言していくことによって、それらの意見が社会のなかへ少しずつ浸透していくことになる。また、共有する課題を討議することによって、みずからの宗教伝統の見方を深めることもできるという意見が提示された。

第6回研究会

日時
2002年3月7日(木)18:00-20:00
場所
キャンパスプラザ京都 2階 第3会議室
「宗教と倫理を考察するための方法論的基礎――CTNS Workshop, "Science, Theology, and Religions:An Encouter of Three Stories" 参加報告を兼ねて」

小原克博(同志社大学、学会事務局長)
司会:澤井義次(天理大学)

 

 小原氏は、まず、宗教倫理学会における今後の研究の方向性を討議するための糸口として、今年1月に参加したCTNS (The Center for Theology and the Natural Sciences) 主催のワークショップにおけるおもな討議内容を報告した。今日、自然科学と宗教は対立関係にあるが、それらを統合する試みは、これまで主に欧米のコンテクストにおいて模索されてきた。この国際会議では、自然科学と宗教の統合へ向けて、アジアの諸宗教の視点からのアプローチの可能性が討議されたが、小原氏はつぎのような発表を行なったと述べた。すなわち、現代日本社会における具体的な宗教現象のなかでも、とりわけ、オウム真理教における自然科学と宗教の「融合」、「科学的」であることを標榜する新新宗教の教説、あるいは、東京のある神社におけるお守り(コンピュータ・ウイルス除け)を具体例として取り上げながら、現代日本において、自然科学と宗教は対立しているというよりも、むしろ両者の境界が曖昧であることが問題であると発表した、との報告を行なった。
 こうした参加報告の後、小原氏は「宗教と倫理をめぐる問題群」をつぎの4つに整理した。すなわち、それらは(1)宗教と科学(特に生命科学)、(2)比較宗教倫理学(comparative religious ethics)、(3)地域紛争と宗教(悪の問題)、(4)宗教とエコロジーである。小原氏によれば、宗教と科学(特に生命科学)は、ES細胞やクローンの問題にみられるように、緊急に取り組むべき問題である。比較宗教倫理学は今日、アメリカを中心に成立してきたが、それは諸宗教の視点にもとづいて、いわゆる物語論的アプローチも援用している。また、地域紛争と宗教(悪の問題)はまさに現代世界の課題であるが、とくにベトナム戦争以後、戦争を正当化するための「聖戦論」が研究されてきた。さらに宗教とエコロジーについては、今後、欧米と異なるアプローチを模索する必要がある。
 また、「宗教倫理学会設立の趣旨」に照らして、今後の研究のあり方を論じたが、その方法論の模索としてつぎの4点を挙げた。すなわち、(1)徹底した学際性の確保、特に自然科学分野の研究者(とりわけ、生命科学者)との交流、(2)科学の実情に対する正確な理解の維持、(3)科学の言葉と宗教の言葉の通約可能性の探求、および、科学からの問題提起における宗教的課題(テーマ)の析出、(4)持続可能なテーマの設定と共同研究の実施である。宗教倫理学会では、研究テーマを消費するだけであってはならないことも、小原氏は強調した。
 引き続いて行なわれた全体討議では、宗教倫理学会における今後の研究のあり方が、さまざまな視点から活発に討議された。主要な討議内容はつぎのとおりである。まず、宗教と科学の通約可能性を探求することは重要であるが、それと同時に、宗教間対話をとおして、宗教間の通約可能性を探求することも必要である。それらふたつは、結局のところ、密接不可分に連関している。また、哲学と科学の交流は実際に行なわれているが、宗教と科学の対話あるいは交流のあり方をよく検討する必要がある。
 さらに、宗教倫理学会における今後の研究の進め方についても、活発な討議が行なわれた。具体的に研究の進め方を考える場合、大きく分けてつぎの2つがあるとの意見が提示された。すなわち、それらは宗教と科学の関わりなどの根本問題を探究する基礎研究、および、ES細胞や環境問題などの現代の諸問題を探究する応用研究である。それらを研究するためには、2つの研究会を同時に開催していくことが考えられるが、宗教倫理学会はまだ発足したばかりであり、その学的基盤がもう少し固まるまでは、1つの研究会をとおして、研究成果を地道に蓄積していくことになった。
 最後に、これまでの研究プロジェクトとの一貫性にも配慮して、次年度の研究プロジェクトの具体的なテーマが討議された。その結果、今年度の研究テーマ「エコロジーと宗教」を副題として、いわゆる「身体」に焦点を当てることになった。正式な研究テーマの決定は、研究プロジェクト委員会に委ねられた。ちなみに、研究会は今年秋の学術大会(10月19日)へ向けて、4月25日(木)をはじめとして、5月、6月、7月、9月の5回、開催してはどうかということになった。