研究プロジェクト

研究プロジェクト

2007年度

「祈りとモダニティ ―宗教から現代を考える―」

昨年までの研究プロジェクトでは、「変化する世界における宗教――相克と調和」というテーマのもと、宗教間対話の可能性などをめぐり、現代の宗教の諸問題について幅広く論議を重ねてきた。本年からは、問題連関をもう少し絞って「祈りとモダニティ」というテーマで、宗教が現代社会においてどのような可能性をもちうるのか、という観点から研究を進めていくことにする。本テーマでは、「祈り」が宗教の原点であるという基本認識に立ち、「祈り」の概念を、神仏への祈りのみならず、瞑想やあらゆる宗教的情感をも包括するという、できるだけ広い意味で使用している。

 

ところで、宗教とモダニティは古くて新しいテーマである。いわゆる近代は宗教批判としての啓蒙主義・科学主義によって推進され、宗教はその存亡の淵に立たされている、という意味での宗教とモダニティの対立はむしろ古典的なテーマになった。しかし、今日の近代は、近代化の外部にあってその与件と考えられて来た宗教や家族といったあらゆる伝統や自然を自らの内部に取り込み、自らの依って立つ根拠それ自体を近代化する再帰的近代化、すなわちハイ・モダニティの時代に突入しているといえよう。この点で、宗教とモダニティの関係は、従来とは次元を異にする全く新たなテーマとなる。このような現代において宗教は何処へ行くのか、あるいは宗教の視点から現代はどのように見えるのか。これらが今後二年にわたって「祈りとモダニティ」というテーマの下で探究されるべき問題である。

夏期一泊研修会

日時
2007年8月7日(火)・8日(水)
場所
高野山大学
祈りの言語について ―― 聖書とユダヤ教の関係から

手島 勲矢 (同志社大学)

 

 ユダヤ教の「祈り(テフィラー)」は、ユダヤ教の法規的には「アミダー(立った祈祷)」と呼ばれる「18の祝祷(シュモナ・エスレ)」を指示する。それは成人男子の義務である「シェマ・イスラエル(申命記6章5節以下)」朗誦とは異なり、イスラエルの女子も幼い子も「祈り」の義務を負う(ベラホット3:3)。またイスラエルの「祈り」は、「口に出さない」言葉として理解される点でも「シェマ」とは区別されており、ユダヤ賢者は「祈り」を「心の祭儀(アボダー)」と定義している。発表者は、このユダヤ教の「祈り」の性格を、ヘブライ語聖書の伝統からどのように理解できるかに焦点をしぼり、歴史的状況からの説明を試みた。
1)「祈り(テフィラー)」の語源:「祈り」は??? という語根から派生した言葉として、神と人とを「取り持つ」の意味があるとされた(J. Wellhausen)。聖書の用例を見る限り、この語根は人から神に対してのみ用いられ、「祈願」????? 「哀願する」????? 「求める」???/??? 「叫ぶ」??? 「呼ぶ」??? などの語根では人が人に対しても用いられることと好対照を成している。すなわち「祈り」は、聖書では、普段の言葉とのある区別を想定している言葉の行為のように考えられているように思われる。
2)「祭儀」との関係において:ラビ・ユダヤ教において「祈り」は声に出してならず「心の中の祭儀(アボダー)」とされるが、その意味については「トーラー」を構成する祭司資料が少なからず示唆に富む。すなわち、カウフマンによれば、祭司たちの「祭儀」のあり方を述べる祭司資料では行為に台詞が一言も付されていない(それは他の資料が捉える神殿「祭儀」の様子が音楽や台詞を伴うことと好対照を成している)。ラビ・ユダヤ教が「祈り」を「心の祭儀」とし、「18の祝祷」を黙って心で唱えることを課している背景には、何らかの聖書の描く古い神殿祭儀の伝統に連なる部分があることが思われる。
聖書の言語において「祈」と「願」は分けられているが、ラビ・ユダヤ教の「アミダー」の文言には日常の必要を含む願いが含まれている。ユダヤ教の「祈り」は「沈黙」を介して神に仕える「祭儀」と人の生から噴き出る「願い」を心の中で一つにした。

***

 

「「あなた方の神、主に仕えなければならない」(出エ23:25)――これは祈りである。彼は言う、「あなた方の心の中で彼に仕えるならば」(申11:13)――心の中の祭儀とは何を意味するのか。それが「祈り」である」(Mekilta deSimon bar Yohai on Exod 23:25)

 

 

祈りと誓願

生井 智紹 (高野山大学)

 

 宗教を捉える一つの視点として祈るという行為がある。一般に祈りの主体は人々である。請願態、希求態という岸本英夫博士の宗教の類型にその典型を観ることができる。現実の苦という不条理からの解放を願う者たちの祈りは、苦を解脱した阿羅漢いう理想への希求の願として仏道の修行が始まる。後には、むしろ救済者への請願という趣をより顕著にし、その祈りに応じた如來、諸菩薩たちの現われが大乗の特色となっていく。
しかし大乗の特質は、そのような人々の願いが顕著になって宗教性を深めていくというだけのものではない。大乗は、苦からの解脱者という理想への希求ではなく、仏の理念そのものへの同化融合(成仏)が主題となる。無上の悟りへの誓願という語が、大乗の特質的な祈りのあり様である。さらに言うなら、祈る主体はむしろ仏である。本源の慈悲が誓願の祈りとして菩薩に顕れ、その祈りの実現が本願の達成たる成仏、浄土の実現となる。釈尊が前世でメーガ青年として燃灯仏のもとで発した無上の菩提への誓願を理想として諸菩薩が現れ、普賢行願として普遍化された大乗の祈りが顕在化する。法蔵菩薩の48願、薬師の12願などの本願として顕れた本源の祈りが大乗を大乗たらしめていく。
つまり本源の慈悲の顕現たる本願への同調が、その実現化への方向性をもった菩薩という実存の祈りということになる。その祈りの実現法が菩薩行ということになる。一般に菩薩の行は仏徳の完成(波羅蜜)という形態で捉えられる。思想史的にはその行も、仏と誓願を等しくする者たちの祈りとして、融合態から諦住態という傾向を顕著にしていく。
誓願という語が、密教文献では三昧耶という語に変わっていく時期がくる。三昧耶という神秘的同一化によれば、本源の祈りは、本願、誓願をともにするものたちの祈りに顕在化、具現化してくる。 本源の祈りがありそれとの関係のもとに祈りの実存性が顕れる。祈る実存に顕在化した本源(還源)の想いが、実存の源底を知ったときに、同じ祈りを顕在化している曼荼羅の無量の身が具体化して観られることになる。その祈りの世界に生きる自覚が、仏の祈りの具体化として実存の行動に顕れる。
 

 

「加持」という祈り ―― 仏弟子たちの想い: 「大悲」というブッダの思願

室寺 義仁 (高野山大学)

 

 「『祈り』が宗教の原点である」との基本認識に立った時、世界宗教の出発点に立つ歴史的人物(あるいは、預言者)たちには、いかなる「祈り」①があったのであろうか。そして、その教えを継承した信奉者たちにとって、この「祈り」①とは、どのような内実を持つ「祈り」②として理解されて来たのであろうか。ブッダの教えの道たる仏道を歩む者たちにとっての「祈り」②について試論を提起した。
ブッダの「祈り」①とは、総じて言えば、「大悲」(「あらゆる生き物が、苦しみから解き脱ける(ほどきぬける)ようにあれかし」)なる思願である。この「祈り」①によってすっかり取り込まれてしまうまで、心流がフォーマット・形成されて行く仏弟子たちの想い、その過程と結果が「祈り」②の内実であると思われる。
この「大悲」なる思願は、直弟子であれ後の大乗仏教徒であれ、ともに彼らの側では決して持ち得ない心と解され、ブッダに固有の特性であると価値付けられて来た。しかしながら、「祈り」②の体験は、「加持」(adhi ~の上に、√sth? 起ち上がる、との語義要素を第一義とする動詞語根から派生するサンスクリットの行為名詞からの唐代の漢訳語)という如来の側からの一方的な働きかけ行為と相俟って、その受け手たる行者の側の祈りの内実として見事に結実することが知られる。すなわち、初期の大乗経典である『十地経』に拠れば、ブッダの思願を本願として共有する如来たちは、一切衆生を代表する菩薩の(心流の)上に起ち上がり、言わば菩薩の心を把「持」掌握するから、菩薩の(心流の)上では、続いて、如来の側からの「大悲」が、言わば「加」被「加」重を繰り返して行く。そして、この「大悲」が心を占有し先導するようになった時、初めて菩薩は、道徳的精神的にためになる自らの心的諸要素である善根を、自身の方便と智慧による実践状態へと作り為して、例えば、苦しみの存在としての一切衆生を、縁起した存在として、同じく縁起した自己存在そのものに等置する観察と吟味を繰り返し行う。こうした過程を経ることによって、菩薩の諸善根は「大悲」の実現状態へと起動するように導かれ、結果、菩薩に「大悲」が発現する、と云う。ここに「加持」なる祈りは、「祈り」①と②とが相応する祈りとして結実する。

第1回研究会

日時
2007年3月23日(金) 18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都2F第3会議室
講師
棚次正和氏(京都府立医科大学)、落合仁司氏(同志社大学)
コメンテーター
高田信良氏(龍谷大学)
「近代性に対する宗教性の三つの位相」

落合仁司(同志社大学)

 

 再帰的近代性が近代性それ自体を対象化する近代性の位相であるならば、それは近代性を対象化する宗教性の位相と同相である。近代物理学をその推進力とする近代性に対して宗教は以下の三つの位相を取りうる。

 

  1. 近代性をそれのみでは不完全な未完の可能性と捉えて、それを補完し完備化する補完宗教あるいは「近代の完成」の位相。
  2. 近代性に挑戦する国民国家のナショナリズム、国家あるいは政治と一致する政治宗教あるいは「近代の超克」の位相。
  3. 近代性において周縁化されることによってむしろ聖域化される神秘体験あるいは霊的な心理に依拠する心理宗教あるいは「近代の回避」の位相。

 

 報告者は第一の補完宗教の可能性に期待する。たとえば落合仁司「無限、存在、他者‐清沢満之と集合論‐」を参照。

 

 

「祈りとモダニティ」についての一考察

棚次正和(京都府立医科大学)

 

 「祈り」を「宗教の原点」と捉える研究プロジェクトテーマの趣旨説明に則り、従来の「祈り」の概念を二重に拡張することを提案したい。というのも、欧米語のprayer, pri俊e, Gebetなどと日本語の「いのり」とは、必ずしも対応していないからである。考察の際の導きの糸は、「祈りは人間の自然本性に由来する行為であり、状態である」ということと、また「祈りは宗教経験の原点をなす」ということである。第一の導きの糸からは、人間の自然本性を「絶対的なものを志向する」ことと捉えることにより、「祈る」ことと「生きる(=息をする)」こととの親密な結びつきが浮かび上がる。また、第二の導きの糸からは、宗教経験を「絶対との統一」の経験と捉えることで、相対(実存的自我)と絶対との関係に対する認識が覚醒や救済の経験となることが確認される。

 

 まず、「祈り」や祈り関連の言葉、訳語の原語の語源探索を通して、多様な輪郭線を素描するとともに、そこに見出される共通の線分を整序すると、特定の対象への意識の方向づけや集中、そのための適切な手段の行使、聖なるものとの接触・交感やそこからの顕現などの諸契機が含まれていることが分かる。日本語の「いのり」の原義は、たぶん「い(神聖=生命力)」+「のり(宣り)」、すなわち「生宣り」であろう。こうした語源探索からのデッサンを下敷きにして、実存的な「自我」と「言葉」を目印に、祈りの現象を検討するならば、次の三局面が識別できると思われる。自我が人格の陶冶・錬成やその完成を目指して人格的超越者と「我-汝」の関係に入る「有の祈り」、自我やそれに纏わる欲望や執着を放棄し、言葉も放棄して「無我・無心」の極みに開かれていく「無の祈り」、そして生命の本源から響きわたる「いのり(生宣り)」である。いずれも言葉の最後や言葉の母源として定型の祈り(聖句や聖音)が現われ、どの祈りも三局面を含むものと想定される。ここで問われるのは、我々自身の「祈り」理解が有する妥当性に他ならない。

 

 もう一つの焦点「モダニティ」については、従来の歴史認識が人類史全体を俯瞰したものではないこと、近代欧米発の議論をそのまま現代日本に当てはめることの是非、現代を近代(モダニティ)との連続性において捉える見解がニューエイジの隠れた潮流を看過していることなどを指摘しておきたい。

第2回研究会

日時
2007年4月20日(金)、18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都2F 第2会議室
講師
井上善幸氏(龍谷大学)
「真宗から見たいのりの諸相」

井上善幸氏(龍谷大学)

 

 様々な宗教に見られる「祈り」は包括的な概念であって、現世祈祷はその一面にすぎない。しかし、「祈らない宗教」とされる真宗では、「祈り」の内実を“神仏に対して願い求める”という祈祷的意味に限定する傾向が強い。ここではその背景と問題点について考察する。
 第一は、すでに数多くの研究で論じられているとおり親鸞の教学そのものに由来するものである。自らのはからいをまじえず、ただ阿弥陀仏の本願力によって往生・成仏が実現すると説く親鸞の浄土教理解においては、神仏に対して浄土往生を祈るという行為は厳しく否定される。また、“人間には純粋なまことの心はありえない”というのが阿弥陀仏の真実の願いによる救いを信知した親鸞の人間観である。したがって現世を祈るということはもちろん、純粋にまことの心をもって祈るということも、ともに否定されることになる。門弟宛の消息には、「いのり」が肯定的文脈で用いられる例があるが、それらは自らの往生が定まった念仏者が、他の者に対して“弥陀の誓いに入れ”と「思し召す」ということを意味するのであって、超越的人格者に対して特定の願望の実現を要請するものではない。
  「祈り」の内実を、“神仏に対して願い求める”という意味に限定する理解は、江戸時代に西本願寺系の教学において発生した三業惑乱と呼ばれる論争において典型的である。当時、阿弥陀仏の本願をただ知的に理解することで救いが実現するとする無帰命安心説を正すために、身口意の三業による阿弥陀仏への帰依を勧める三業帰命説が示された。しかし、三業祈願の行をもって浄土往生の真実の因とする記述は親鸞には見られない。したがって、無帰命安心説に対して示された三業帰命説は、阿弥陀仏に対する祈願請求を信心の内実とする誤った理解であるという反駁がなされる。この見解の相違をめぐって西本願寺系の教学は混乱を来し、やがて三業帰命説が斥けられることで論争の決着を見た。このような経緯から、他力の信心は「祈願」とは異なるということが、教学上強調されることになる。これが、真宗は「祈らない宗教」とされる第二の背景である。
 さらに、浄土真宗本願寺派の教章に挙げられる宗風では、「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」とあるが、非科学的な要素の排除という文脈における「祈祷」否定は、上記二つの背景に加えて、近代以降の真宗学が直面した科学・啓蒙主義に対して取った姿勢として理解することが出来る。

 

 ところで、「親が子供の冥福を祈る」という表現には、「先立った子が今も幸せであることを念じ願っている」という内容が含まれうる。また、「祈り」には超越的人格との内面的な対話の側面もある。「祈り」を現世祈祷に限定することは親鸞の信心理解を明確にする上で有効な面もあるが、より包括的な意味での「祈り」の中で親鸞の教学を明らかにすることは、なお残された課題であるといえよう。

第3回研究会

日時
2007年5月18日(金) 18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都2F第2会議室
講師
芦名定道氏(京都大学)
「祈りとモダニティ」とはいかなる問題か?

芦名定道(京都大学)

 

 今年度の研究プロジェクトのテーマは、「祈りとモダニティ──宗教から現代を考える――」であるが、「祈り」と「モダニティ」という二つの事柄をつなぐことは決して容易ではない──祈りの「普遍性」に対するモダニティの「歴史的特殊性」(西欧?)、あるいは祈りにおける「個人」の比重とモダニティの「社会性」──。今回の発表では、第一回研究会における「祈り」(棚次発表)と「モダニティ」(落合発表)の議論を受けて、「祈りからモダニティ」と「モダニティから祈り」という二つの方向で議論が進められ、モダニティの状況下での宗教(祈り)の可能性について考察が行われた。
 まず、「祈りからモダニティ」。「祈り」──有の祈り、無の祈り、いのり(生宣り)という三重の相──は、もし、それが「絶対的なものへの志向性」として人間の本性に属するものであるとするならば、モダニティのもとにおいてであっても、何らの仕方で(あるいは新たな仕方で)存続し続けるものと考えられねばならない。問題は、祈りという人間の可能性がいかなる仕方で現実化するのか、である(モダニティの状況下における祈りの現象学)。

 

 次に、「モダニティから祈り」。モダニティについては、議論の視点・文脈に応じて多様な理解が可能であるが、今回の研究発表では「伝統的・封建的な社会システムのシステム変動によって生成した社会システムの全体性」(17世紀中葉から18世紀にかけてイギリスで典型的に成立しグローバル化によって世界規模で進展しつつある社会システム)と規定し、議論が進められた。この場合、「モダニティ」の特徴は制度的再帰性(ギデンズ)と解すことができるが、制度的再帰性は、懐疑を制度化(仮説という仕方での知の確実性の解体)し、内部準拠性による外部のシステム内への繰り込みとして機能することによって、社会システムの外部の問いを除去・抑圧し、伝統や権威の解体を促進するものとなる。これは、一見、伝統的な宗教を否定するものと思われるが、しかし、再帰性によって成立するシステム自体がシステムの外部の問い(システムの根拠・正当化の問い)を除去できないことに注目するならば、モダニティは必ずしも宗教の衰退を意味しないことがわかる。つまり、コントロールできないリスクの存在を通してモダニティへの正当性への問いは繰り返し提起され、モダニティによって抑圧されたものが回帰するという事態である。ここに、モダニティはいかなる宗教的可能性を秘めているのかという問題が生じる。現代のスピリチュアリティをめぐる問題は、この点からいかに理解できるのか(新しい宗教性か)。あるいは、伝統宗教は自らを変革しようと試みるのか(モダニティのもとでの伝統宗教の再構築か)。

第4回研究会

日時
2007年6月22日(金)、18:00~20:00
場所
キャンパスプラザ京都2F第3会議室
講師
マイケル・シーゲル氏(南山大学)
「近代への対応とその対応への反動:モダニティとカトリシズム」

マイケル・シーゲル氏(南山大学)

 

序論

モダニティをどう定義するか
  1. 近代=中世期に次ぐ時代
  2. 近代=現代 
  3. ここでは特に1960年代以降のカトリック教会の対応を取り上げる。
モダニティとの関係における諸宗教の違い
  1. ユダヤ教とキリスト教以外の宗教の場合: 近代化=西洋化
  2. プロテスタント: 近代化は宗教改革とプロテスタントの成立の流れにのっかっていた。
  3. カトリック: モダニティそのものがカトリック教会への反発だという捉え方ができなくはない。教会は防御的な姿勢に立たされた。

 

モダニティへのカトリックの対応

モダニティへの対応とは
  1. 新しい文化(思想、生活様式、家庭のあり方等)への対応
  2. 新しい社会体制、社会問題への対応
  3. 社会における教会の位置づけの変化(周縁化)への対応

 

第二バチカン公会議をもって、教会が十全的に近代に対応しようとしたが、第二バチカン公会議以前は否定の一点張りだった。社会における教会の地位に関して、必死になってこれを守ろうとした。社会問題や社会のあり方に関してだけ前向きの姿勢も見られる(しかしこれも防御的な側面もあった)。

 

  1. モダニティとの関係は少し定めがたいが、特に近代に入ってから教会は「家庭」を教会の特別な関心領域としている。防御姿勢の一部? 社会における教会の位置づけ(役割)を求めて?
  2. 第二バチカン公会議以前は、防御姿勢で片付けきれない唯一の対応は社会教理、もしくは社会教説の成立である(1891年 レールム・ノヴァルム、1931年 クアドラジェジモ・アンノ、ピオ十二世のラジオ・メッセージ、1961 マーテル・エト・マジストラ、1963年 パーチェム・イン・テリス)。

 

第二バチカン公会議がもたらした変化
  1. 典礼刷新:  参列→参加、ラテン語→現地語、統一→多様性。公会議以降の典礼において、土着化が重視されるようになった。
  2. 現代世界とのかかわり: 「現代世界憲章」、世間との乖離→世間へのかかわり、救いに対する理解の変化:天国(来世のみの救い)→「神の国」(現世においても未完成ながら実現されうる救い)。公会議以降は社会問題や政治運動へのかかわりがいっそう重要視される。解放の神学の成立がその傾向の実りの一つである。
  3. 他の宗教に関する理解: サタンの支配の下→御言葉の種子。公会議以降、宗教対話が重視され、多元主義的な思想も普及する。
  4. 教会の概念: ヒエラルキー→「神の民」、縦の関係の重視→横の関係の重視、組織に重点を置く考え方→ 共同体に重点を置く考え方。
  5. 教会の組織のあり方: 中央集権主義→地方分権主義、教会への「補完性の原理」の適用、バチカンからの上から下への体制より、司教の団体性による教会の運営が求められるようになった。
  6. 一般信徒の役割:? “pray, pay, obey”(祈る、献金を収める、従う)→信徒使徒職、つまり信徒が教会においても社会においてもより能動的なかかわりを持つようになった。公会議以降はより民主主義的な姿勢が教会で求められるようになった。
  7. 宗教生活および道徳生活: 形→心、教会への従順→個人の良心
  8. 神学: 弁解→探求、近代思想(人権、民主主義)の受容、教会中心→キリスト中心→神中心、歴史の渦中にある教会への認識(教義の発展等、教会の歴史にある問題点への認識)。神学を勉強する/説く→神学をする。Theology→theologies。つまりたくさんの視点からの神学的考察の正当性が意識されるようになった。

刷新に対する反動

60年代においても、問題の浮上
  1. 結婚や家庭に関する教会の教えをめぐる問題点、特に離婚と避妊。これらの問題に関して、教会の姿勢に変化はなかった。
  2. 第二バチカン公会議直後の教会において生まれた三つの流れ: 典礼刷新運動、聖霊刷新運動/カリズマ運動、正義と平和/解放の神学。公会議直後はいわゆる保守派と進歩派の激しい対立もあった。その対立に比べて、この三つの流れには表向きに闘争や対立はなかった。三つとも「進歩的」というイメージがあった。しかしおそらくこの三つはより深い分裂の始まりだった。

 

第二バチカン公会議の刷新に対する反動
  1. 急激的な変化への不安、過去への憧れ
  2. 避妊問題に関する教会の決定と信徒の教会離れ/避妊問題、中絶問題の踏み絵化
  3. 宣教に関する新しい理解(つまり対話と社会活動に重点を置く姿勢)への反発
  4. 解放の神学および教会の「政治的発言」への反発
  5. 司祭、修道者の離脱、信徒の教会離れ
  6. 司祭/聖職者のアイデンティティの問題

今はどうなっているか

 

特長
  1. 第二バチカン公会議の精神の正反対で、教会はいっそう中央集権的で権威主義的になっている。
  2. 第二バチカン公会議が周縁化されている/無視されている/忘れられている。(バチカンのホームページから第二バチカン公会議の文献にアクセスする難しさ、第二バチカン公会議の文献に入れ替わるヨハネ・パウロ二世の著物)
  3. 派閥に分かれている。(カリズマ運動、解放の神学、Right to Life、オプス・デイ、レジオナリオス・デ・キリスト等)。
  4. 社会へのかかわりや社会教説における防御精神、あいまいさ、両義性

 

社会問題に関するバチカンの両義性を示す二つの例:
  1. バチカン主催セミナー「気候変動と開発」(2007年4月26?27日)
  2. Compendium of the Social Teaching of the Catholic Church)。(2004年発行)

 

一見では、いずれも第二バチカン公会議で生まれた方針の実りのように思われる。しかし:

 

気候変動と開発セミナー
  1. セミナーについて: 招聘されたほとんどの科学者は温暖化問題否定論に大変偏っていた。
  2. 唯一の神学者: Calvin Beisnerの立場は聖書の言葉通りの解釈に基づいた創造論と温暖化問題の否定
  3. セミナーについての報道の一部も温暖化否定論者に利用されやすいものだった

 

教会の社会教理に関するコンペンディウム (Compendium of the Social Teaching of the Catholic Church)
  1. 2004年発行
  2. 中央集権的、権威主義的な精神。ヨハネ・パウロ二世の思想を中心に。引用・参照の割合(聖書を除く):ヨハネパウロ二世の文献568回、ヨハネパウロ二世自身ではないが、彼の下でバチカンから発行された文献209回(この二つの合計は777)、第二バチカン公会議の文献205回、パウロ六世の文献64回、ヨハネ二十三世の文献63回、レオ十三世の文献31回、ピオ十一世の文献23回、ピオ12世の文献22回、その他36回(ヨハネパウロ二世の統治の下でないすべて文献の合計444)。
  3. 特に経済、そして人間と自然の関係に関して、両義的な取り扱いをしている。

 

こうして、逆戻りの側面がある。しかし第二バチカン公会議から維持されているものもある。

 

  • 救いの概念 救いは来世だけの個人だけのものではなく、聖書が言う「天にあるもの、地にあるもの、すべてのものの和解」であり、現世におけるさまざまな絆における和解を含むという理解は普及しているし、教皇庁の最新の文献においても裏付けられている。
  • 人権・民主主義の肯定と奨励
  • 一般社会(特に社会問題)への教会のかかわり(今も物議をかもす点ではあるが)

第5回研究会

日時
2007年7月21日(土)、13:00~
場所
東京(同志社大学東京オフィス)
講師
島田裕巳氏(東京大学)
演題
「中沢新一批判の意味するところ」
コメンテーター
落合仁司氏(同志社大学)

第6回研究会

日時
2007年9月21日(金) 18:00~
場所
キャンパスプラザ京都2F第2会議室
講師
高田信良氏(龍谷大学)
演題
「祈りとモダニティ」との問いは、仏教にとっていかなる問題か?
「祈りとモダニティ」との問いは、仏教にとっていかなる問題か?

高田信良(龍谷大学)

 

  • これまでの研究会で、「キリスト教にとって近代とは何だったのか」「近代の
    完成、超克、回避」「近代への対応とその対応への反動」などが論じられてき
    た。仏教にとって、はたして、同じような問い方ができるのだろうか。それは個
    々の宗教religionsにとっての問いなのだろうか。それとも、宗教 religionに
    とっての問いなのだろうか。
  • 「祈りとモダニティ」との課題は、a religion としての仏教だけの問いではな
    く、<仏教(13宗56派)・教派神道(14教)・(非宗教)国家神道>が形成され
    ていくプロセスのなかでの宗教の問いとして考えられねばならないだろう。
  • 仮説的定義として、「祈り/宗教」を、宗教的関心(崇敬/信のこころ)が「か
    たち」に現わされる活動態と理解し、「モダニティ/近代」を、(明治期)日本が
    出会ったもの、新たなシステム化を促す力/文化と理解する。
  • 明治初期、神仏分離・廃仏毀釈運動の状況から大教院が設置される。大教院が
    廃止される過程で、仏教の「13宗56派」が、また、教派神道(14教)と(非宗教
    としての)国家神道が形成されていった。これらは、いずれも、日本社会での
    <人々の宗教的関心にもとづく運動態>(神道・仏教・天理教等々の信仰活動
    態)が「近代」(化を促す力)と出会うなかで、一定の形(宗派/教派、神社神
    道/国家神道など)として現れてきた(宗教religion化した)ものと言えるだろう。
  • 浄土真宗の世界では「真俗二諦」が語られる。真諦は宗教(仏教、宗派)の教
    え、俗諦は非宗教(国家神道、世俗の一般道徳など)と位置づけることで、「信
    教の自由」と共存できるようになったが、非宗教との対立項としての宗教に自己
    限定されていることが指摘されねばならないだろう。また、大正末から昭和初期
    のころ、野々村直太郎『淨土教批判』・金子大栄『浄土の観念』・曽我量深『如
    来表現の範疇としての三心観』が問題となり、<僧籍剥奪、大学追放>事件が起
    きた。これらの書が問題となったのは、「近代」に触発された「宗教」(浄土、
    往生など)概念が伝統的な信(教学)理解との間で摩擦が生じたということであ
    り、「祈りとモダニティ」の問題の一つとみることができるだろう。