本学会では、過去2年間にわたって、「宗教から「公共圏」と「世間」を問い直す」とのテーマのもとに研究プロジェクトを展開し、さまざまな議論が積み重ねられてきた。その中で改めて浮き彫りになった論点のひとつが、日本において伝統的に人間関係を規定してきた「世間」が、近代になって欧米から「市民社会」や「公共圏」などの観念が紹介された後も、現代まで引き続き個人と集団の関係に大きく影響を及ぼしているという事実であった。たとえば阿部謹也は、「世間」が人々に生活の指針を与え、集団で暮らす場合の制約を課すものであるという点から、それを日本の「公共性」と見なしている。
その結果、日本では、欧米のような個人主義が育っていないとされるが、そのことと現代日本人の多くが「無宗教」を自認していることは無関係ではなかろう。すなわち、その場合の「宗教」とは「個人の宗教的信仰」を指すが、実際はほとんどの日本人が初詣や盆など何らかの宗教行事に参加しているのであり、このことについて澤井義次は、日本では「個人の宗教的信仰」と「生活慣習としての宗教」が有機的に重なり合う多元的・重層的な意味構造を構成していると説明する。問題は、この後者の「宗教」によって(たとえば「同調圧力」という形で)前者の「信仰の自由」がしばしば抑圧されているという点である。
一方、近代ヨーロッパ社会で確立した「政教分離」の原則は、世俗主義の流れの中で「公共性」(公共圏)と「自由」(親密圏)を対立するものとして位置づけてきたが、「私事としての宗教」を超え出る「公共宗教」を巡る議論は、このような公/私という構図が一面的にすぎないことを明らかにした。こんにちの欧米社会において「政教分離」が問い直される中で、「宗教的自由」が改めて議論の的となっている。会員の積極的な発表と議論への参加を期待したい。