研究プロジェクト

研究プロジェクト

2022年度

宗教から「公共圏」と「世間」を問い直す
Reconsidering the “Public Sphere” and “Seken (the world, worldly matters) ” from the perspective of religion

 宗教共同体や宗教者が公共圏にどのような仕方で参与するかという問題は、本学会における根本的テーマの一つであるが、このテーマは、ポスト世俗化時代と言われる今日、公共圏そのもののあり方から考察される必要がある。

 世俗化論が盛んな時期に、世俗化とは「宗教全般の消滅」を意味するのか、それとも「宗教の私事化(見えない宗教)」にすぎないのかなどの議論があった。1979年にイランイスラーム革命が起こり、東西冷戦の終焉に伴い各地の宗教紛争が目立ち始めると、宗教の復興と言われるようになり、世俗化論は低迷し消滅した。「公共圏の宗教」は、宗教の私事化への異論として議論され始めた経緯もある。「世俗化」と同様に、「公共圏」や「公共圏の宗教」の概念についても、それが普遍的モデルなのか、キリスト教特有のモデルなのか、といった議論が分かれている。

 「公共圏」とは公的な事柄について多くの人々が互いに平等な立場で自由に議論する社会空間であり、公共圏の成立とともに近代市民社会が成立したというのが、私たちの共通の理解であろう。日本は近代化に成功し議会民主主義を確立しているが、公共圏が未発達であるという指摘も以前からあり、そのときに引き合いにだされるのが「世間」である。「世間」について、井上忠司は「ナカマウチ」から「アカのタニン」へと広がる同心円的な重層構造をもつものとして説明し、阿部謹也はヨーロッパ中世において支配的であった非合理的な社会と重ね合わせつつ、個人が集団のなかに埋没した社会空間を意味するものとして説明しているが、日本の生活に溶融した宗教文化や仏教の出世間との関係など、宗教の問題連関から考察されるべき点は多く残されている。

 昨年の研究会と夏季研修会で議論した結果、公共圏という考え方も用語も日本人にはなじみがないことを改めて認識させられた。したがって今年度の課題は、世間の意味をより綿密に問い、同時に「宗教と公共圏」のテーマで考察されている問題が何かを問い直し、その問題が日本ではどう扱われているのかを考える。端的に言えば、「世間」を生きてきた日本人が「公共圏」をどう捉えるか、宗教の観点から問い直すことを2022年度の研究テー マとして設定し、宗教の社会的実践についてのより深い考察へとつなげたい。会員の積極的な発表と議論参加を期待したい。

第1回研究会

日時
2022年4月28日(木)18:00-20:00
場所
zoomミーティング
講師
澤井義次(天理大学名誉教授)
演題
日本の宗教性と「世間」の関わり
コメンテーター
佐々木閑(花園大学教授)

 澤井氏は、日本の宗教性と「世間」の関わりを意味論的視座から検討することで、「世間」のおもな特徴を分析したうえで、「世間」が日本的「公共性」とも呼ぶことができること、さらに「世間」と「公共圏」には意味のずれが見られることを明らかにした。
 まず、澤井氏は現代日本の宗教伝統において、「生活慣習としての宗教」と「個人の宗教的信仰」(信仰としての宗教)が意味論的に重なり合っており、宗教の多元的・重層的な意味構造を構成していると述べた。特に「生活慣習としての宗教」は、ふだん人々によって「宗教」としてほとんど自覚されていないが、それは長い歴史の伝統の中で形成され、日本文化の基層を成してきたという。さらに「生活慣習としての宗教」は、澤井氏によれば、「世間」の構成要素の一つを成しており、個人がつくったり、変えたりすることはできないものである。「世間」とは人々に「生活の指針」を与え、「集団で暮らす場合の制約」を課している。日本文化論で知られる阿部謹也がハーバーマスの「公共性」の議論をふまえて、「公共性としての「世間」」と呼んだように、「世間」は日本的「公共性」と表現することもできると澤井氏は強調した。
ところで、明治10年頃、societyの翻訳語として「社会」の語が定められると、「世間」という語は公的な舞台から消えていったという。翻訳家の柳父章も指摘するように、「社会」の意味は抽象的で、「世間」の意味は具体的である。「世間」の語は「社会」と違って、日本語として千年以上の歴史をもつ語感の豊かな日常語である。「世間」は「生活慣習としての宗教」の具体的なコンテクストを成しているが、「公共圏」は私たちの主体性にもとづく「個人の宗教的信仰」を前提とした公共性の圏域を示している。したがって、「公共圏」と「世間」の意味は、知的レベルでは理論的に重なっているが、翻訳語の「公共圏」および「公共性」は、「世間」という日本の具体的な状況を適確に表現できず、両者には意味のずれが存在すると指摘して、研究発表を終えた。
 澤井氏の研究発表を受けて、コメンテーターの佐々木氏は、「世間」と「社会」の意味の差異に注目しながらコメントした。まず、佐々木氏は「世間」が「刷り込み共同体」であると捉え、その中で人々は所与の価値観や世界観を与えられてきたと述べた。宗教も「世間」の一部であり、日常生活の一部を成しているという。一方、「社会」とは「利得にもとづき、権利を主張する場」であると述べた。今日の状況では、テレビや新聞が「社会」に当たり、ネットが「世間」に当たるとも言い、現在、一般的に言われる「私たち」という言葉は、「世間」の代替語として用いられていると言うことができるとも述べた。
 その後の全体討議は、研究プロジェクト委員長の小田氏の司会のもと、研究テーマについて活発な議論がなされた。まず、今回の研究発表をとおして、「公共圏」と「世間」の意味とその差異が明らかになったとのコメントが述べられた。また日本仏教において、法然や親鸞が浄土教の教えを説いたことで、それ以前の「世間」のものの見方を打破しようとしたとの解釈も提示された。さらに澤井氏が指摘した日本の宗教性と「世間」の関わりに関する意味論的分析は、日本文化以外にも当てはまるのではないかとの問いが提起された。その問いに対して、日本の「世間」では、地縁・血縁の関係によって支えられてきたが、一方、西洋のキリスト教社会では、「世間」が究極的に一神教的な教義によって縛られていた。このように宗教と「世間」の関わりについて、差異が存在するのではなかろうかとの応答が提示された。さらに日本的「公共性」では、「個人」が「世間」に吞み込まれているきらいがあり、日本社会には、厳密な意味で「個人」が存在しないと言えるかもしれないとの意見も提示された。
 ところで、日本文化は「言葉で言わなくても分かり合える世界」であり、「公共圏」について議論することも難しいし、「公共圏」を作り上げることも難しいのでは、とのコメントが提示された。また今日、「世間」の変容スピードが速いこともあって、世代間の断絶が生起していると言われるが、そうした状況であっても、「世間」は姿を変えながら存在しているとの意見も述べられた。さらに「世間」における神道や仏教などの宗教の違いは、明治以後に形成されたものであり、明治以前には、その違いがあまりなかったのでは、との意見も提起された。
 最後に、澤井氏は全体討議における充実した議論に触れながら、日本の精神風土では、意味世界の二重性が見られるが、人々の心は二重の意味世界のあいだを常に揺れ動いてきたと述べた。またコメンテーターの佐々木氏は、澤井氏の補足説明を受けて、インドのカースト社会は従来「世間」であったが、カースト差別を否定する「社会」へと変化しつつある例を挙げて、さらなる議論の展開に言及し、充実した内容の活発な全体討議を終えた。