新井 俊一 (相愛大学)
この発表においては先ず、インドの独立および近代化に多大の貢献をしたモハンダス・ガンディー(1869-1948)とビームラオ・アンベドカル(1891-1956)の業績と思想を吟味する。次に、アヒンサー(非暴力)という共通の思想的基盤に立ちながらも両者は厳しく対立したことを鑑みて、人間世界の確執を克服し、平和を構築するために現代人は何をなすべきかを考える。
ガンディーはインドの独立のためには社会改革が必要だと考え、宗教間の調和、不可触賤民の解放、村落産業の育成、村落衛生の改善、教育改革、女性の地位の改善、農民と労働者の地位向上、などに精力的に取り組んだ。その精神的支柱はヒンドゥー教の聖典『バガバッド・ギーター』に基づくサティヤーグラハ(真実護持)であり、行動の基本方針はアヒンサーであった。いわばガンディーは、信仰と倫理と政治運動を統合しようとしたのである。
一方アンベドカルは不可触賤民階級の出身であり、その階級の人々の困窮と社会的阻害を少年時代から身をもって味わった。一生を不可触賤民の地位と生活の向上に捧げた。その指導理念もやはりサティヤーグラハであり、アヒンサーであった。しかしアンベドカルは、ガンディーの不可触賤民解放運動が独立運動のためのきれいごとにすぎず、ガンディーが不可触賤民の地位と生活向上のために具体的なことをほとんど何もしていないことを厳しく批判している。アンベドカルは、その原因がカースト制度と密接につながったヒンドゥー教にあると考え、最終的に人類の平等を説く仏教に改宗した。
このように両者は対立しながらも、ともにアヒンサーの精神を守り、結果としてはそれぞれの立場で目標を追求した。二人の関係と業績は、現代に生きる私たちに対立する相手との平和共存の道を示している。
澤井 義次 (天理大学)
まず、澤井氏は現代世界において、いま求められている生命倫理のあり方を再考するための一助として、インド思想の中でも、とくにヴェーダーンタ思想における死生観とその特徴に焦点を絞って研究発表を行なった。その後、引き続いて、インド思想を中心とした死生観をめぐって全体討議が行なわれた。ここに、その研究発表の主要な内容、および全体討議のおもな論点を記述することによって、第2回研究会の報告としたい。
研究発表の冒頭において、澤井氏は近年、ターミナル・ケア(終末期医療)が注目されていること、また、死生学(東京大学COEプロジェクトを中心とした研究)において、死の諸問題が掘り下げて研究されるようになっていることを指摘し、従来の生命倫理を再考するためにも、東洋思想のパースペクティヴに注目することの現代的意義を述べた。そのうえで、東洋思想の中でも、とくにインド思想に焦点を当てることによって、新たな生命倫理への探究の手がかりを探ろうとした。そこでまず、澤井氏はインド思想全般にみられる死生観の特徴を「輪廻転生」や「解脱」などの思想を踏まえて簡潔に説明し、さらにウパニシャッドおよびヴェーダーンタ思想の死生観とその特徴を、おもにシャンカラ(700-750頃)の不二一元論思想とラーマーヌジャ(1017-1137伝承)の被限定者不二一元論思想を中心に論じた。
澤井氏の研究報告によれば、インド思想の視座からみると、「生」と「死」は過去・現在・未来にわたる生命の円環的構造をなしている。人間存在は解脱に到達するまで、果てしなく生と死を繰り返す。人間の本質は霊魂であり、それは死後も不滅で、解脱に達しないかぎり、現世から来世へ輪廻転生する。したがって、現世における生は生命の終わりではなく、いわば永遠に続く河の一つの波にすぎないという。こうした議論を踏まえ、澤井氏はインド思想の視点をとおして生命倫理をとらえなおすとき、人間の生命は死をもって終わるのではなく、死後にも存続する。生命には、本来的に生とともに死が組み込まれており、生と死の不可分離性を認識することの重要性を指摘した。さらにインド思想の視座からみれば、近代科学的な知の地平とはちがって、「死」をとおして「生」を把握する知の地平の可能性を指摘して、研究発表の結論とした。
その後、行なわれた全体討議では、澤井氏の研究報告を踏まえて、活発な討議が展開された。まず、今日の医療現場では、依然として「生」だけが強調されているとの指摘がなされた。また、現代の科学、とりわけ医学は、近代合理主義的なものの見方にもとづいて、生と死を明確に分けてとらえる二元論的な生命観に立脚しているとの意見も提示された。そこには、インド思想に見られるような「生と死の不可分離性」を説く東洋の宗教的な生命観との乖離が存在する。つまり、宗教的コスモロジーと科学的な知見との接点が全くないと言っても過言ではない。ところが、近年、生と不可分である「死」を排除してきたことに対する反省も見られ、そのことは新たな生命倫理の必要性がようやく認識されるようになってきたことを示しているとの指摘もあった。こうした討議をとおして、宗教倫理学会としては、今後とも宗教的な生命観と科学的な生命観の接点を探究していく必要性が強く認識された。
花岡 永子(奈良産業大学)
二十一世紀の現代における生命倫理は、即座には解決不可能な、しかも将来の見通しすら不可能な、困難な多くの問題を抱えている。例えば、脳死移植の問題、クローン人間の誕生の可否、ES細胞の臓器への利用、優生学的見地からの堕胎の可否、安楽死の問題等々が挙げられる。これらの多くの問題に一々対応して問題の解決を考察することは、もちろん一面では重要であろう。しかし、他面では、そのような考察だけでは、決疑論に陥る危険もある。そこで、現代における生命倫理の問題を根源的に考えるための一つの視点として「自覚」を取り上げたい。つまり、現代における生命倫理の問題を人間の自覚の視点から考察を試みてみたいのである。その場合、「自覚」は自己の自覚と世界の自覚から成り立っていることに注意が払われなければならない。
また、人間の自覚は、人間の個が真の自己にたとえ一瞬であれ覚すれば、自我、実存、生(あるいは虚無的個)そして真の自己が愛や慈悲のうちで渾然一体となって、(ということは絶対無の場所においてということであるが)、しかも同時にケース・バイ・ケースに先の五段階のいずれかの一段階を主調として、成り立っている。しかし、真の自己に一瞬たりとも覚したことがない場合には、各々の自覚段階が成り立っている場(開け)は、それぞれ断絶を以って相違している。更に生命の諸段階は、真の自己に一瞬でも目覚めれば、物質的生命、生物的生命、動物的生命、精神的いのちの諸段階は、宗教的いのちのうちで渾然一体となっている筈である。しかし、人間の個が真の自己に目覚めるまでは、個は、それぞれに自らの核心としている生命の段階でのみ生きていて、個がそれぞれに生きている生命の各々の段階は相互に相違している。
以上のように、自覚と自覚の成り立つ場を基礎として、生命倫理の問題を宗教哲学的に考察する。この考察に際しては、レジュメに載っている主としてヨーロッパの古代からニーチェに至るまでまで支配してきた四つの思考の枠組みとしてのパラダイム(相対有、相対無、絶対有、虚無)がそこで成り立つ絶対無の「場所の論理」を開示した西田幾多郎とその根源とも言い得る「宗教的いのち」を開示した道元の『正法眼蔵』の「生死の巻き」が大きなヒントになっている。
生井 智紹(高野山大学)
「いのちの生き生きと生きる現場」は、決して生命に関する倫理綱要によって律しきれないあり方をする。熱帯雨林で若い敵兵に出会ったときに切実に見えた「いのち」、同じ熱帯雨林で崇高な「生命の畏敬」を感じ取った医学者、いまわの際の弟のいのちを安らかな笑みで終息させた兄、それらの行動には、一概の倫理、人間の合意形成を超えた、いのちへの認識がある。そもそも宗教とは、パリサイ人の法制化をよしとするものではなかったはずである。悪人であるからこそ正機という例もある。
静的(static)な固定化する方向での合意形成、法制化と、生きるいのちとはある意味で乖離する方向にあるのではないか。いのちとはより自覚的な実存性をもつ一回限りの縁起性のもとにある個の営みである。それは動的(dynamic)に捉えられるべき現実である。その場合、倫理とはむしろ善悪の彼岸を超えた自覚的創造の様への評価であろう。ある条件下のいのちのいきいきさを可能にするのは、固定化を離脱し自在無碍性を獲得した空なる自由のもとにあってこそである。
大乗仏教の倫理とは、要するにそのような動的ないのちの認識、そのいのちを同じように持つ他者への共感、つまり、おなじいのちをもつものたちの自覚的創造のありようである。人間の合意形成、生命科学技術のコントロール、科学的技術の適用範囲の枠組み構築という固定化の方向で、律するということは、必ずしも、いのちの現場にはそぐわない。そういった観点から、科学技術、生命操作がもたらした倫理的問題への対応の在り方と、いのちの生きる現場への接点を見出すことが、少なくとも宗教者の関与の在り方と思われる。そういう側面での生の現場への関与の在り方に、いわゆる生命科学への倫理的関与という意味での生命倫理とは別の、いのちへの宗教者の積極的関与という生命倫理、たとえばスピリチュアルケアなどの、苦を伴ういのちへの倫理的関与としての生命倫理という側面が、宗教と生命科学との接点にあるはずである。そこにこそ関心がもたれるべきであろう、と思われる。
いのちは、教条に基づく行動ではなく、自覚的行動を常に創造し続けることによって、倫理性を確立しえる。それは、いのちへの認識と、他のいのちへの共感、心の観察という、いのちとこころの教育そのものによってこそ育成されていくものであるかと思われる。その育成、訓練の欠如こそが、現代社会で問題化されるべき「いのちをめぐる倫理」の最重要課題であろう。
棚次正和(京都府立医大)
1998年1月開催の第101回WHO執行理事会でWHO憲章前文の「健康」定義に関する改正案(現行の定義にdynamicとspiritualの二語を追加する案)が次回の総会の議題とされることが採択されたが、1999年5月ジュネーブで開催の第52回WHO総会では、実質的な審議をほとんど経ることなく「健康」定義改正案は見送られ、事務局長預かりとなった。この問題については既に多くの識者が論じているが、ここではWHO憲章「健康」定義改正案をめぐる審議経過や日本政府の対応などを通して見えてくる事柄の本質を問うとともに、近年とりわけホスピス(緩和ケア病棟)の医療現場で言われているスピリチュアルペインやスピリチュアルケアを「人間の普遍的な存在構造」に関わるものとして捉え直すことで、「スピリチュアル」が指示する次元や人間観について何らかの展望を得たいと思う。
「健康」定義改正案問題は、spiritualと宗教の関係、spiritualと伝統医療の関係、およびspiritualな健康の評価法という、少なくとも三重の問いを顕在化させたと思われる。そこから、spiritual とreligiousの区別(宗教性〔=霊性〕と宗教の区別)、近代西洋医学と伝統医療の人間観・生命観の相違、実証よりも自証(自覚の体験)、あるいはspiritualとmentalの識別などが議論の主題となることが予想される。
また、人生の終末期に人生・病苦の意味や自分の存在理由などに関して凝縮的に現れるスピリチュアルペインやそれに対処すべきスピリチュアルケアの問題は、現代日本では主にキリスト教関係者が関与している。たとえば、窪寺俊之、ウァルデマール・キッペス、村田久行などの研究者=実践家がこの分野の指導的な役割を果たしている。「スピリチュアル」の次元を「人間の普遍的な存在構造」の最内奥の次元と見なすとき、この問題は万人にとって不可避な本質的な事柄となる。私見では、「スピリチュアル」の次元を本来的に有する人間の存在構造は、霊(spirit)-魂(soul)-体(body)から成る人性三分説(trichotomy)になる。スピリチュアルの次元は不死・永遠の世界への参与によって自覚的に開かれるがゆえに、ここからは可死性と不死性の双方に跨がった人間像が出現することになる。それは太古の昔から神秘的秘教的教説の形で連綿と継承されてきたものであると同時に、近現代人の大半が忘却してしまったものである。
塩尻 和子(筑波大学)
イスラームは同根のセム的一神教のなかでは、もっと厳格に「唯一神」を奉じる宗教である。唯一の神が使徒ムハンマドを通じて人間に語りかけた「神の言葉」を結集した聖典クルアーンのなかでは、人間は生きている時も、死んだ後も神の戒律に従って「暮らす」ことが求められている。そこでは、本来的に死者と生者の区別はないように思われる。クルアーンでは、現世も来世も人間が生きる場として想定されている。ひとたび神の手によって創造された「命」は現世での短い定められた期間を過ぎたなら、来世に復活して永遠の「命」を生きることになる。クルアーンは死生観を神の手に委ねることによって、死は永遠の「生」にいたる「過程」であるとなした。クルアーンにおいても預言者の召命は終末論と結びついている。それによって、運命は、神に従うか否かという個人の決断によって変えられるものとなり、歴史とは、不信仰者が破滅し、信仰者が将来の生を生きる報償の場となる。神の意志は最後の日、最後の審判において、すべてが明らかになると教えられる。クルアーンでは被造物のなかで人間は地上での「神の代理人」としての栄光と責任を負うとされるが、この教義は、近年、とくに倫理思想の観点からも注目されている。生きているときは「神の代理人」という栄光のなかで与えられた生と責任を全うし、その生の評価によって来世での幸福をえることができるという教義には、イスラームの宗教倫理の根幹がみられるが、そこには生者にも死者にも救いが用意されているからである。