2009年度の研究プロジェクトは、「格差社会と人間の危機」です。
落合仁司(同志社大学教授・JARE会長)
シモーヌ・ヴェイユの神学は、20世紀前半に再発見された「十字架の神学」の有力な一例である。十字架に付けられたキリストの苦しみは、全ての人間一人一人の苦しみであり、神はこの人間一人一人の苦しみを共に苦しむ。すなわち神は人間の受苦passionを共苦compassionする。この神の共苦こそ、神が人間を愛することに他ならない。
しかし神が人間の苦しみを共に苦しむ、言い換えれば神が人間を愛するためには、神もまた苦しむ人間と同じ境遇、すなわち超えられない限界を背負った弱い状態に置かれねばならない。無限の力を持ち、およそ苦しむことなど考えられないであろう神が、自らの力を放棄し、この世で最も弱い者として現われねばならないのである。
無限に強い力を有する神が、超えられない限界を背負った弱い者として現われねばなららないという事態、神の自己放棄と呼ばれるこの事態は、しかし明らかな論理矛盾である。無限に強い者が、同時に限界を有する弱い者ではありえない。たとえそれが神のご意志であったとしても、神もまた論理的な矛盾を犯すことは不可能である。
ところがシモーヌの兄アンドレ・ヴェイユの数学、分けても彼に主導されたブルバキの位相空間論は、この無限なるものが同時に限界を有するという矛盾を解決する。位相空間とは、無限集合が上限を有する空間に他ならない。すなわち位相空間においては、無限なるものが同時に限界を有する事態を矛盾無く思考しうるのである。
したがって神を位相空間と表現することが許されるならば、神は無限なるものであると同時に限界を有することになる。神は無限に強く全能であると同時に限界を有し弱く無力でありうるのである。このとき初めて神が人間の苦しみを共に苦しむ、神が人間を愛するという言説が論理的に正当化される。
強く全能である者が弱く無力であることを共に苦しむからこそ、そこに救いがある。無限に強い者が同時に限界を有する弱い者であるからこそ、神の共苦は救済でありうる。神の共苦という神学は、位相空間論という数学を待って始めて論理的に根拠付けられるのである。
釈 徹宗(兵庫大学准教授、真宗学、宗教思想)
現代人は常に「確たる自己を確立せよ」というメッセージを受けている。応用倫理のさまざまな場面(特に生命 倫理の領域)においても「自己決定」がひとつの帰着点となっている。会社や村や家などの共同体の在り方が 変容し解体されていくに伴い、責任主体である自己を確立しなければ現代社会を生きていくことは困難となって いるのかもしれない。
ところが、仏教では「自分というものが強ければ強いほど、苦悩も強くなる」と説いている。この視点から語る ならば、一方において「確たる自己」を求められ、他方においては「自己が確たるものであればあるほど苦しい」 という相反する二方向へと引き裂かれようとしているのが、現代人の姿だということになる。まさに二重拘束(ダ ブルバインド)状態である。精神科医の春日武彦氏は「現代は精神が分裂しやすい社会だ」と語っているが、こ のような構図も要因のひとつなのであろう。
このような現代人の苦悩に関して、仏教は多くのヒントを有している。例えば、仏教では「私たちの心や身体
は 、調えることを怠ると暴れる」と考える。そして、人間が本来もっている過剰への連鎖に対して、バランスあ る立ち位置「中道」を説く。倫理学にも「スリッピースロープ(滑り坂)理論」があり、人間の欲求が次第に極端な 方向へと連鎖して行くことを警戒している。
かつて、ドイツ系イギリス人経済学者のE.F.シューマッハが、『スモール・イズ・ビューティフル』という立場を 提唱した。シューマッハは、進歩・発展・成長だけに価値をおかないサステナブル(持続可能性の高い)な姿勢 を仏教の中道から学んだのである。
もはや現代人は消費者体質となっており、等価交換の感性に基づいて生活している。医療・教育、そして家 庭にまでビジネス・モデルが侵入しているのである。この傾向は止まりそうにない。しかし、社会とは別の価値 体系や生と死を超える物語をもつ宗教は、現代のビジネス・モデルとがっぷり四つに組めるはずである。その 意味において、社会と宗教の折り合い点が倫理だとも言えよう。
仏法に基づいて他者や社会と関わることを「縁起の実践」と呼びたい。縁起は本来、認識モデルであるが、そ れを積極的に解釈するのである。と同時に、(『維摩経』が語るように)その関係性に執らわれないことを「空の実 践」と呼ぼう。「関わるが執らわれない」という仏教の特性を生かした実践によって、二重拘束をブレークする方 向性を構築できないだろうか。