今年度の研究プロジェクト は、昨年度に引き続き、現代世界と宗教のあいだに見られる「相克と調和」に焦点を当てながら、現代世界における宗教のあり方を探究します。目まぐるしく変化する世界において、現代の科学によって提示される知の枠組みや現代社会の諸問題が、宗教とどのように関係しているのか、また、それ らの問題との関わりの中で宗教間や宗教内にどのような相克と調和が見られるのか、などの論点をめぐって探究していきます。
マイケル・シーゲル氏(南山大学)
・ 現代世界はヨーロッパ型社会が全世界に普及したものである。本来、科学技術や経済における発展と自由や民主主義の普及により、世界に新しい黄金時代をもたらされると期待された。しかし、その夢は破綻した。代わりに、人類の生存そのものが問われる時代となった。
・ 人類の生存そのものを脅かす問題は三つある:
二つは明白
1) 環境問題―特に温暖化
2) 大量破壊兵器が使用される戦争
もう一つはもっと間接的
3) 上記の二つの問題の危険性が明白なのにそれに対応することができないこと。つまりその二つの問題への対応ができない状態を作っている政治的、文化的、精神的などの要因を含めた問題である。
・ この三つの問題を伴う課題:
1) 経済のあり方
2) 競走の理念を乗り越えて協力体制を作る必要性
3) 安全保障に関する新しい考え方の必要性
4)民主主義の後退の傾向に歯止めをかけ、民主主義をいっそう高める必要性
5)精神的、文化的な問題への対応の必要性―人間関係の希薄、人間の尊厳の喪失、長期的視点の欠如、イデオロギー等で固まる傾向、教育の問題
・ 定義は不可能。辞書に出る「宗教」という項目はそれがどのようなものであるかを説明のみで、その意味を明確にするものではない。宗教は一定のものではないから定義は不可能。
・ 現在では、少なくともキリスト教の例を見れば、他の宗教との違いより、同宗教内での相違や対立のほうが激しい。例えば、9.11事件以降、キリスト教とイスラム教の関係が難しくなったと言われているが、両方の宗教の大半を占める穏健派では、むしろ相互理解のための活動が増加しているように思われる。両方の宗教のなかで原理主義派と穏健派の間の溝がむしろ深まっているように思われる。
・ キリスト教を参考にしつつ、宗教の現実を踏まえて、昨今の世界において宗教が果たしうる役割を考慮する。
・ キリスト教が経験してきた「変化する世界」:ユダヤの田舎から地中海周辺の都会への進出、ローマ・ギリシア文明との出会い、ローマの国教となる、ローマ帝国の崩壊とヨーロッパへの普及、宗教改革、宗教戦争から啓蒙時代へ、民主主義と資本主義の成立、植民地主義。
・ キリスト教はどう変わったか:
形而上学:「神はみてよしとされた」→二元論。
救世論: 「すべてのものの和解」→悪に対する勝利、現世における和解を含める共同体的救い→来世的、個人的救い。
道徳観: 愛の絆で結ばれる共同体や社会を目指す→各個人が悪を退け、善を果たすことによって神の前の義認を勝ち取る。
組織論: 平等と一致を最優先する共同体→上から下への思考成立、特権階級を含むヒエラルキーの成立等。
・ 他の宗教に対して:宣教から対話へ、社会に対して:世間からの離脱→社会へのかかわり。
・ 変化の要因:二つの世界大戦の影響、宣教師の体験と宣教の実りの限界の影響(他の宗教、他の文化との出会い)、第三世界と貧困問題の関連、過去に対する反省の関連。
・ 以前の教会に対する反省: 排他的、権威主義的、杓子定規、形式的、性悪説的、来世だけを重視する、各個人と神の関係だけを重視する、階級社会(聖職者―信徒) 。
・ 最も深い変化:
「神の民」の概念:教会における平等、教会の外部に対する肯定。
「神の国」の概念:救いイコール和解、現世における和解を含む。
・ そこから生まれたもの: 対話、社会的福音、平等、上からの権威より良心、ルールより心、個人的道徳観より共同体。
・ 教会の中の対立の複雑化:公会議直後の改革派と保守派の対立。一時、激しい論争が継続する。改革派は教会の内部を見る派(例えば典礼刷新運動)、教会の外部を見る派(例えば解放の神学、宗教対話)、そして内面的な宗教心を重視する派(例えば聖霊刷新運動、カリスマ運動)に分かれる。公会議直後の改革派と保守派のような激しい論争はない。しかし、目だった衝突がなくても、それぞれの流れの間の溝はもっと深いと思われる。
・ より平等、より民主主義的、より世界に適応した教会への期待の破綻:バチカンの権威主張(避妊問題、離婚者に対する扱い、聖職者と信者の間の格差の庇護、司祭の妻帯の無許可、解放の神学の弾圧、他の宗教の肯定に対する制限)。
・ 信徒の教会離れ(伝統的なキリスト教国において)―第二ヴァチカン公会議が作った期待が実現しなかったことと関係している。聖職者への不信感の増大もある(司祭の性犯罪の問題)。
・ 現在、バチカンが忠誠の試金石として使っている課題:中絶、キリストの絶対性(他の宗教への肯定の制限)、女性の叙階。バチカンと一般信徒の溝、教会内の派閥の間の溝がいっそう深まる原因となっている。
・ 政治の問題(1):宗教が政治的権力者に利用される。ローマ帝国時代も、コンスタンティヌスやシャルルマーニュ等の例。現代において:米国の共和党およびブッシュ政権とキリスト教の原理主義。2004年の選挙でブッシュ大統領が中絶の問題を利用し、カトリック投票者の票を52%獲得。
・ 政治の問題(2):一度権力を握った者はそれを手放そうとしない。教会が保持しようとしてきた権力。アイルランドの離婚解禁の例――アイルランドの法律は教会より厳しかったのに教会が変更に反対した。
・ アイデンティティの問題:人間はグループ所属によるアイデンティティを求める。宗教もグループアイデンティティを与えるものとなる。その場合、宗教団体が排他的で独善的になる心配がある。このようなグループアイデンティティを作るのに宗教の特定の出張を大変強調する傾向もある。例えば、現在、中絶の問題がそのように利用されている。不安定な時代にはその傾向がいっそう強まる。現在のカトリック教会の中の分裂とも原理主義とも関連している。一つの例として、現在、米国で、トム・モナハンという人物がカトリック信徒だけが住むカトリックの教えに添った町を作ろうとしている(アヴェマリア市)。
・ 利害関係の関連:教会の保守化に深くかかわってきたオプス・デイという団体は大変裕福だと指摘されている。解放の神学などに反対してきた理由は解放の神学が目指していた社会改革に反対していたからだと十分に考えられる。
・ 宗教団体の中で優位な立場にいる人がその立場を守ろうとする傾向がある。バチカンの権威主義、司祭と信者の格差が関係している。
上記の問題は宗教のすべてではない。しかしおそらく必ず組織化された宗教団体に伴う問題であろう。これらの問題により、宗教の影響が悪いものとなっていく心配がある。なお、カトリックの保守化は一般社会における一種の保守化(レーガンやサッチャーの時代以降)を伴っている。他の宗教においても似たプロセスがあるかもしれない。
・ 疑問および議論、対話を十分に許す、人間の常識に十分にかなう宗教。
・ 排他的でない宗教、独善的でない宗教、対話的、他者と交流ができ、他者から学べる宗教。
・ 現世に目を向けさせ、現世の問題に取り組む宗教。平和、環境問題、貧困問題などを重視する宗教。
・ 宗教を使ってアイデンティティを作ろうとするより、すべての人との共通のアイデンティティに目を向けさせる宗教。これは排他的、独善的な宗教のあり方も、宗教における派閥の成立も、そして宗教における階級の格差を超越するものとなるはずである。
北川宥智氏(高野山真言宗 高家寺住職)
日本仏教の現場(寺院)は「社会通念に反する言動が横行」「女性蔑視」「世襲制」「寺族という貴族化」「宗派内政治(宗政)」「本音と建前」「教学と現場の乖離」など想像を絶する諸問題があり、そのために他宗教と関わる機会も意思もない者が多い。これは、仏教ばかりでなく、日本の宗教全体の問題ともいえる。しかし、人権・環境・平和などの問題は宗旨宗派を超えた人類共通の問題であり、その解決には異宗教間の対話は必要不可欠なものとなっている。
この異宗教間対話の例として、人種の坩堝のニューヨークでカトリックの神父とユダヤのラビが織り成すコメディタッチの映画「Keeping the Faith」がある。異宗教がどのように関わっていくかというテーマは大いに参考になる。また、The Rolling StonesやMadonnaに代表される世界的なスターが精神的なことや社会問題を伝えると、それは宗教を超えて全世界規模で認識される。彼らには宗教的な意味で様々な問題があり異宗教間対話があるわけではないが、宗教にとらわれることのない共通認識を作りやすい。
これからの社会で、異宗教間対話をするために宗教家に求められるのは、「教育・福祉・環境・平和への関わり」「異宗教の概略を知る」「寺院や教会の活用」「自宗派以外の人との交流」「技術よりも情熱」であると考えられる。そしてそれらをより深めていく根として、自ら信じる教えの「深化」と「体現化」が最も肝要ではないだろうか。聖徳太子十七条憲法の第一条と第十条は異宗教間対話の上でも参考になる。
信仰という接着剤により各宗教の理論と現場とが密接に繋がることによって自宗内の問題を乗り越え、異宗教間対話により人類共通の問題に立ち向かう時が来ている。
井上善幸(龍谷大学)
初期の仏教では善悪は教理の中心を占めていないが、仏教に倫理的側面があることも確かである。特に大乗仏教では、慈悲の理念に顕著なように、倫理的行為は重要な宗教的意味を持ち、成仏という究極的な目的に対して他者との関わりが重要な意味を持つ。しかし、単なる倫理的行為の実践が成仏に直結するのではない。慈悲の実践に関しては、常に、具体的行為とその果報を見通す智慧が重視される。親鸞が、「小慈小悲もなき身」であると悲歎し、「善悪のふたつ総じてもって存知せず」と語るのは、現実に直面する倫理的決断が往生・成仏へ向かうのか、それとも背反するのかを究極的に判別する智慧を持ち合わせていないことに対する嘆きである。
倫理的諸問題に対して多くを語らない親鸞ではあるが、彼は、消息において、念仏者の放逸無慚を諫める際に、浄土を願生し念仏することによって、無明に酔い、貪瞋癡の三毒を好む我々の人格が変容されていくと語る。法蔵菩薩の発願修行の姿とその成就である浄土の真実は、我々の自己中心性や、我々が生きる世界の不実を照らし出すと同時に、望ましい可能性を示唆しつづける源泉として、一つの倫理的指針ともなるのである。
倫理を問うということは他者との関わりを問うことであるが、それは、他者を発見することでもある。しかし、「他者の眼差し」が単に社会的慣習を意味するのみなら、それは世間体を気にするということに終始する。法蔵菩薩の発願修行とその成就としての浄土を、我々と我々が生きる社会へ向けられた眼差しと受けとめるところから、真宗の倫理が語られるべきではないだろうか。
星川啓慈(大正大学教授)
標記の問題について考察する以前に、そもそも宗教の真理――宗教者の内的体験にかかわるもの、世界や人のあり方にかかわるもの、神や絶対的価値など超越的存在にかかわるもの、それらが入り混じったものなど、種々のものが想定できる――について語れるのか、という問題がある。ウィトゲンシュタインとナーガールジュナは、ともに、宗教の真理について語ることは不可能/ほとんど望み薄だと考えていた。このことは、宗教間対話にかかわるものが正面から取り組むべき問題の一つであろう。
リンドベックの「教理の規則理論」は、長所と短所をもっている。後者と宗教間対話を関係づけていえば、「宗教ごとに規則が異なるのだから、宗教間対話が困難になるおそれがある/異なる宗教の信者同士の相互理解は困難になる」ということだ。リンドベックの教理理論がそうした難点をはらむのは、おのおのの宗教の教理(一群の教理)は「自己完結」している、とみなすからである。
星川の「宗教言語ゲーム論」立場を要約すると、次のようになる。・一つの宗教を「体系的言語ゲーム」とみなす。・言語ゲームを離れたものは認められない。・宗教の言説は、第一次水準の言語(一種の対象言語)によるものと、第二次水準の言語(一種のメタ言語)によるものとの、二つの水準に分けることができる。・宗教間対話が行なわれるのは、第二次水準の言説においてである。・宗教間対話の基盤は言語ないし言語ゲームにしか求められない。
落合は、行き詰っている宗教間対話のために、「普遍的数理システムによる言語」(上記の第二次水準における言語)を構想している。だが、落合は、言語とは独立に「存在」「存在それ自体」を把握できると考えており、なおかつ、彼の理論体系のなかでそうした「存在」が根源にあると思われる。もしもそうであれば、宗教言語ゲーム論からは、そうした理論体系は根柢で成立しない、と考えざるをえない。なぜならば、言語ゲームから離れた「存在」「存在それ自体」はありえないからである。また、異なる言語の間で翻訳可能性/確定性があることが保証されなければ、普遍言語の構築は不可能である。さらに、たとえ「存在」にかかわる側面について普遍言語を構築できたとしても、存在論に著しく傾斜した普遍言語では、宗教においては掬い切れない多くの部分が残るだろう。なぜならば、宗教には存在以外の多くの側面(価値・認識・実践などにかかわる側面)があるからだ。
島薗 進(東京大学)
ヒト胚からES細胞(ヒト胚性幹細胞)を取り出し再生医療に役立てようとする企てが成功し、とりあえずは体外受精の際に子宮にもどされずに冷凍保存されている「余剰胚」が利用されることとなった。だが、それにとどまらず、人間のクローン胚を作成してそこからES細胞を取り出す研究を進めたいという声が高まっている。しかし、そもそも人の生命を作成し、それを利用するなどということが許されるのか。この問題につき、欧米ではES細胞は人の生命の破壊によって作られるということが倫理問題の焦点と考えられ、中絶擁護派と反対派の討議に類する対立が軸となっている。しかし、日本では胚の破壊ではなく、胚の利用による人間の道具化という観点から倫理問題を掘り下げるべきだと考えられている。中絶問題とヒト胚利用問題を分けて考えようとする考え方だ。この相違は欧米では、「個としての人間生命の神聖性」、あるいは「個としての人格的生命の尊厳」というように、「個」に関心が集中している。これに対して、日本の中絶をめぐる過去の経験や文化的前提を検討すると、「個としての人間」とは異なる観点からの人間生命の尊び方が見られる。この問題を理解するには、近代化に伴う人口問題と植民地主義の関係について考察する必要がある。植民地主義的拡張は文明的優位によって正当化されるが、その際、国家や宗教による人口拡大志向がどのように関係していたが、それが堕胎・嬰児殺しの禁止とどう関わっていたかについての比較検討が必要である。また、主体の主権性を強調する個人主義と拡張主義がどう関わっていたかについてもより深く考えてみる必要がある。戦後の日本の中絶許容の背景には、環境との調和を重んじるアニミズム的な思考や縁に重きを置く仏教的な思考法とともに、拡張主義への疑いがあり、近代化と植民地主義を結合させてきた過去への反省が含まれている。
氣多雅子(京都大学)
ウルリヒ・ベックは、近代社会はリスクを生み出しつつ発展を可能にしてきており、そのリスクは社会そのものの存続を危険にさらすほどに増大するに至り、ついにリスクが社会の本質となった、と述べる。リスクの典型とされるのは環境破壊であり、「貧困は階級的で、スモッグは民注的である」と公式化されるように、リスクの分配の論理の特徴は基本的にはそれが特定の階層に限定されないところにある。このようなリスクに対処する必要から、社会構造や生活態度の改変が迫られ、リスク社会という第二段階の近代社会が成立しているというのが、ベックのリスク社会論である。ここから、環境問題は第一義的に社会問題となる。環境問題の現実的な解決は経済、政治、社会のシステムをリスクをコントロールできるような形に変革していくしかないということを認めざるを得ない。だが、生命の営みの基盤が根柢から損なわれつつあることに対する背筋の凍るような思いは、社会問題に収斂させ得ない。宗教が環境問題に関わろうとするときの問題は、まさにこの齟齬にある。この齟齬を考察するために、近代化の核心をなす科学化の問題を検討する必要がある。ベックが再帰的科学化と呼ぶ段階では、科学と技術に起因するリスクと欠陥はその土台から明らかにされるようになり、その結果科学者集団の内部だけでそれらを処理することが不可能になる。近代化に伴う危険の内容は社会全体との関係で定義される。科学的な真偽の判断や複数出された科学的知見の選定に、人々の社会的立場や経済的状況が参与することになり、その政治的社会的立場の形成に、信念や信仰が関与することになる。宗教が環境問題に関わろうとするとき、思想的遺産としての関わり方と宗教的な関わり方が区別される。科学的自然観を批判して諸宗教の自然観や生命観を提示するという態度は前者であり、この関わり方の意義は現実の環境保護運動への有効性によって測られる。自然観や生命観は歴史的文化的に変容するものであり、各宗教の思想形成、教理形成において非常に重要ではあるが、各々の宗教において宗教が宗教たる所以のものではない。宗教が宗教たる所以のものにおいて環境問題に関わるのが後者である。そこにおいて宗教は、科学と技術の生み出したリスクに対する責任の引き受け方を育て上げていくという役割を担う。環境問題は人間にとって将来ますます大きな重圧になり、おそらく終りになることはない。カタストロフィーの予感と恐怖に押し潰されることなく、個々の状況のなかで現実的な対処のできる人間を育成することが、宗教に期待される。