研究プロジェクト

研究プロジェクト

2024年度

宗教の「自由」を再考する―現代日本を中心に
Reconsidering Religious “Liberty/Freedom” : Focusing on Contemporary Japan

 今年度(2024年度)の研究プロジェクトでは、昨年度のテーマ「宗教の「自由」を再考する―現代日本を中心に―」を引き続き検討することで、さらに掘り下げた研究成果を蓄積していきたい。

 

 本学会では、2021年度・2022年度の2年間にわたって、「宗教から「公共圏」と「世間」を問い直す」とのテーマのもとに研究プロジェクトを展開し、さまざまな議論を積み重ねた。その中で改めて浮き彫りになった論点のひとつが、日本において伝統的に人間関係を規定してきた「世間」が、近代になって欧米から「市民社会」や「公共圏」などの観念が紹介された後も、現代まで引き続き個人と集団の関係に大きく影響を及ぼしているという事実であった。たとえば阿部謹也は、「世間」が人々に生活の指針を与え、集団で暮らす場合の制約を課すものであるという点から、それを日本の「公共性」と見なしている。

 

 その結果、日本では、欧米のような個人主義が育っていないとされるが、そのことと現代日本人の多くが「無宗教」を自認していることは無関係ではなかろう。すなわち、その場合の「宗教」とは「個人の宗教的信仰」を指すが、実際はほとんどの日本人が初詣や盆など何らかの宗教行事に参加しているのであり、このことについて澤井義次は、日本では「個人の宗教的信仰」と「生活慣習としての宗教」が有機的に重なり合う多元的・重層的な意味構造を構成していると説明する。問題は、この後者の「宗教」によって(たとえば「同調圧力」という形で)前者の「信仰の自由」がしばしば抑圧されているという点である。

 

 一方、近代ヨーロッパ社会で確立した「政教分離」の原則は、世俗主義の流れの中で「公共性」(公共圏)と「自由」(親密圏)を対立するものとして位置づけてきたが、「私事としての宗教」を超え出る「公共宗教」を巡る議論は、このような公/私という構図が一面的にすぎないことを明らかにした。こんにちの欧米社会において「政教分離」が問い直される中で、「宗教的自由」が改めて議論の的となっている。

 

 昨年度の研究成果をふまえ、今年度の研究会においても、会員の積極的な発表と議論への参加を期待したい。

夏季一泊研修会

日時
2024年8月29日(木)~30日(金)
場所
関西大学セミナーハウス六甲山荘(オンライン併用)

第1回研究会

日時
2024年4月19日(金) 18:00~20:00
場所
オンライン
講師
那須英勝氏(龍谷大学教授)
演題
黙雷と雷夢―宗教的自由と精神的自由のはざまに生きること―
コメンテーター
宮本要太郎氏(関西大学教授)

那須氏の研究発表

 那須氏は、以下に提示した配布資料に沿って研究発表をおこなった。そこで本報告では、配布資料を掲載させていただく。

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 幕末に生まれ、浄土真宗本願寺派の僧侶として維新期から明治末に活躍した島地黙雷(1838-1911)は、明治5年(1872)にヨーロッパ各国を視察し、西欧の宗教事情に学び、「三条教則批判建白書」(1872)を提出し、神道国教化を進める明治政府近代国家の宗教政策として政教分離、信教の自由の必要性を説き、真宗各派の大教院分離運動を進めたことはよく知られている。

 しかしその長男であった島地雷夢(1879-1915)は、キリスト教への対抗心を燃やす黙雷の意に反して第二高校在学中に吉野作造(1878-1933)、内ヶ崎作三郎(1877-1947)らとともに洗礼を受けクリスチャンとなる(1898)。雷夢は東京帝国大学(哲学専攻)卒業後、旧制中学(神戸一中)の倫理学の教員となり三十五歳の若さで没したが、その事績についての研究は、伝統的仏教教団のリーダーの「宗教二世」としての視点からの言及にとどまっているようだ。

 しかし雷夢は、近代国家形成の時代に「<個人の宗教的信仰>と<生活慣習としての宗教>が有機的に重なり合う多元的・重層的な意味構造を構成している(澤井義次氏)」と言われる日本の宗教文化の中で、仏教とキリスト教という二つの宗教(宗教家)たちからの「同調圧力」に抗いつつも、「個人の宗教的信仰」を通して精神的自由を求めた。そうした雷夢の姿を、限られた資料を通してではあるが、その家族との関係にも触れつつ再検討してみたい。

 

島地黙雷と政教分離・信教の自由

 周防国(山口県)出身の浄土真宗(本願寺派)の僧侶で、明治維新政府の中枢と深く繋がりを持っていた島地黙雷についての研究は枚挙にいとまがない。特に近代日本宗教の研究においては、黙雷が明治5年(1872)にヨーロッパ各国を視察し、西欧の宗教事情に学ぶだけでなく、オスマン帝国、エルサレム、さらに帰途インドの仏跡を礼拝したこと、そしてその外遊経験をもとに「三条教則批判建白書」(1872)を提出し、神道国教化を進める明治政府近代国家の宗教政策として政教分離、信教の自由の必要性を説き、真宗各派の大教院分離運動を進めたことは非常によく知られていることである。

 明治5年に神祇省を廃止して設置された教部省のもとで発足した大教院では『三条の教則』(「敬神愛国の旨を体すべき事」・「天理人道を明らかにすべき事」・「皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事」)に基づいて国民教化を進めた。発足当初は神官だけであった教導職が、仏教諸宗の積極的な建白により僧侶を含めた神仏合併のものとなり、明治6年(1873)大教院も芝増上寺に置かれる(仏殿の中に神社の拝殿が設置される)が、次第に神・仏間の主導権争いの激化とともに両者の融和は実現しなかった。明治8年(1875)には「神仏合同布教」は禁止され、大教院も解散し、教部省も明治10年(1877)に廃止され、明治政府の天皇制の下での政教分離の原則が成立したとされる。また大教院の解散については、西欧近代国家の政教分離・信教の自由の理念に学び三条教則批判をおこなった島地黙雷の指導のもとに真宗各派が大教院から離脱したことにより組織の運営が成り立たなくなったことによるものとされる。

 黙雷の主張した近代国家における政教分離の原則とは「欧州政教見聞」において「教也者何ぞ、人を導き政を裨くるにあり。夫只人を導く、未だ曽て人を治むるものに非ず。而して政を裨く、これ政を行ふに非ざるなり」とする。つまり教(宗教)は「政を裨く」ものであり「政を行う」ことではない、また教(宗教)によって「人を導く」ことは「人を治むる」政治とは明確に区別されなくてはいけないという主張である。また両者を混同することは「信教の自由」を侵害することになるという批判でもあった。

 黙雷(本願寺派の主張)の「信教の自由」の主張は大教院の解散後、時を経ずして、明治政府から本願寺に出された「信教自由の口達」を得ることで、教団・宗派のレベルでの「信教の自由」が認められることで一応の決着がついた。その口達なかでは政府は「神仏各宗共信教の自由を保護して」とあり、またその自由を認める対象は神仏各宗の「教法家」としていることからも、黙雷が「信教の自由」として求めたもの、そして得たものは基本的人権としての(個人の人権としての)「信教の自由」ではなかったのである。

 

宗教的自由と精神的自由の間で生きた島地雷夢

 黙雷は、本願寺派の指導者として「政教分離」を主張し、大教院離脱を通して真宗教団の「教法家」の「信教の自由」を勝ち取ったのであるが、計らずして、その家庭の中では、個人の人権としての「信教の自由」の問題に直面することになった。長男であった島地雷夢(1879-1914)は、キリスト教への対抗心を燃やす黙雷の意に反して第二高校在学中にアニー・ブゼル(1866-1936)のバイブルクラスに参加していたが、1898年に吉野作造(1878-1933)、内ヶ崎作三郎(1877-1947)らとともに仙台独立浸礼協会(バプテスト)の中島力三郎から洗礼を受けクリスチャンとなる。

 35歳で没した雷夢の事績はそれほどよく知られていないのだが、東京帝国大学を哲学専攻で卒業後、旧制中学(神戸一中)の倫理学の教員となり神戸一中で雷夢の講義を受けた若き日の矢内原忠雄(1893-1961)に影響を与えたと言われる(矢内原は「彼 [雷夢] はキリスト教を伝道しようとしたのではないが、キリスト教の信者の心の在り方を示し、光を我々の心に投じた。これは私自身の精神史上、欠くことの出来ない1頁であった」と回想している)。雷夢の関わった出版物としては、実弟でインド留学中に没した弟の清水黙爾(1875-1903)の著作を編纂した『紫風全集』(1912)があり、また没後に弟で東京帝大を卒業した植物学者であった島地威雄(1889-1963)が編纂した句集『風のゆくへ』がある。その他の著作としては、明治後期に起こった新仏教運動の月刊誌である雑誌『新仏教』(10-2, 16-4, 16-5)に没後に掲載されたものも含めて、短いものではあるが、3件ほどの寄稿があったことも知られている。また『新仏教』(16-3)誌上には藤井瑞枝(1870-1924、藤井宣正の妻 [1859-1903])の追悼文も掲載されている。

 雷夢についての研究は、そのキリスト教入信の過程について詳細に検討した影山礼子氏の論考があるが、受洗以降の雷夢が、クリスチャンとして積極的に伝道活動を行なったという様子もなく、日本のキリスト教研究においては、アニー・ブゼル、栗原基や、吉野作造、内ヶ崎作三郎に関連する論考の中の「こぼれ話」程度で登場するくらいである。また近代仏教史の研究においても、雷夢は、キリスト教への対抗心を燃やす父黙雷の意に反して(こともあろうに)クリスチャンになったが夭折した「不肖の息子」の扱いのものが多い(下記の影山氏の記述がその典型的なものであろう)。

 島地雷夢(18791915)は、近代日本における仏教革新運動のリーダーで浄土真宗本願寺派僧侶として名高い島地黙雷の後継者として生まれ、旧制第二高等学校(仙台市)(以後、二高と略記)の学生時代にキリスト教(プロテスタント・バプテスト教派)女性宣教師アニー・S・ブゼル(Annie Syrena Buzzell, 1866~1936)のバイブル・クラスに参加、彼女に導かれてキリスト教に入信し人間形成した人物である。しかし、彼のキリスト教受容は、彼が著名な父・黙雷の子として生を受けたがゆえに、父や仏教界との深刻な確執を生み、やがて、東京帝国大学進学のため東京の自宅に戻ったことをきっかけに、家族の嘆きや社会的プレッシャーを受けて動揺し、キリスト教と仏教(浄土真宗)との狭間で思想的な沈黙を守る、という経過を辿った。彼は思想的な煩悶から健康を害し、36年の短い生涯を終えた。(影山礼子「島地雷夢の人間形成とキリスト教(2)」、『関東学院教養論集』22 [2012] p. 101

 しかし、上記の記述の下線部については、果たしてそうであったのか、以下、限られた資料を通してではあるが少し検討してみよう。

 まず「東京帝国大学進学のため東京の自宅に戻ったことをきっかけに、家族の嘆きや社会的プレッシャーを受けて動揺し」についてであるが、この時期の第二高校以来の雷夢の学友であり、同じく東京帝大に進学したクリスチャンの小山東助(1879-1919)の記述によれば(「薄倖の秀才島地雷夢」『鼎浦全集』3p. 550-553)、確かに社会的なプレッシャーはあったかもしれないが、家族関係については、当時クリスチャンの友人として小山氏島地家に出入りすることには特に問題があったわけでもなく(むしろ歓迎されていた)、本人がプレッシャーを感じて「動揺」していたわけでもなく、また「家族の嘆き」があったようには感じられなかったようである。

 さらに「家族の嘆き」については、少なくとも雷夢の兄弟においては、ほとんど存在しなかったのではないかと思われるのである。例えば、東京帝大で仏教研究を進めていたが、インド留学中に亡くなった弟の清水黙爾の遺稿集である『紫風全集』の編纂を、雷夢に任せるほどであり、本書の末尾に収録されている黙爾への追悼文に名を連ねている親族を含む多数の関係者を見ても、雷夢に本書の編纂を任せることに異を唱えるものはいなかったのではないだろうか。また雷夢没後に出版された句集を編纂したのは実弟である島地威雄であることからも、兄弟の関係が非常に良好であったことを示しているといえよう。

 また雷夢が「著名な父・黙雷の子として生を受けたがゆえに、父や仏教界との深刻な確執を生」んだという点については、確かにそのような確執はあったのかもしれないが、洗礼を受けてクリスチャンになったからといって家を追い出されたわけでもなく、少なくとも、帝大生としては東京の実家に住み、また島地家には彼のクリスチャンの友人たちが出入りすることにも何の問題もなかったようである。さらに、雷夢に代わり養嗣子(法嗣)となった島地大等(1875-1927)には、キリスト教に言及した論考が多数残されているが、大等が雷夢の人脈を通してキリスト者とのかなり深い交流があったことが知られ、仏教徒としてキリスト教を理解すべきであるかについての大等の思索には、雷夢の影響が大きかったという指摘もされている(川元惠史「島地大等の研究」龍谷大学学位請求論文(2018p. 87-98)

 最後に「キリスト教と仏教(浄土真宗)との狭間で思想的な沈黙を守」っていたかどうかであるが、帝大生であった当時の雷夢は、どちらかというと「思想」ではなく文学・文芸の方に関心を寄せており、キリスト教と仏教(浄土真宗)のいずれにも「教団レベル」の思想・運動として関わることを避けて、あくまで「個人の宗教・思想」として受け入れようとしていたのではないかと思われる(「薄倖の秀才島地雷夢」p. 553-554)。

 大学卒業後、雷夢は神戸一中(現在の神戸高校)の倫理学の教員として勤めることになるが、当時、小山東助は関西学院の教員をしており、雷夢の死の直前まで最も近い友人の一人として交流があったが、クリスチャンの小山の記すところによれば、その最後は「健康を害して、36年の短い生涯を終えた」のであるが「思想的な煩悶から」ということでは全くなかったようだ。没後、遺骨は父黙雷と同じ墓に納められたのだが、小山によれば、父黙雷の没後、雷夢は「信仰の故郷に帰らしめ」られ、また「アーメンと呼ぶより、南無阿弥陀仏と唱えることを好いて居った」(「薄倖の秀才島地雷夢」p. 562)ということである。

 

まとめ:雷夢からみた黙雷

 本発表の冒頭で、雷夢を「伝統的仏教教団のリーダーの宗教二世」として「近代国家形成の時代に仏教とキリスト教という二つの宗教(宗教家)たちからの「同調圧力」に抗いつつも「個人の宗教的信仰」を通して精神的自由を求めた人物として再検討してみようと述べた。洗礼を受けクリスチャンとなり、東京帝国大学で哲学を学び、また神戸一中の倫理学教員を勤めながら、仏教とキリスト教の間を取り持つ役割も果たしていたのである。

 これは没後出版された句集『風のゆくへ』の後書きに記された、雷夢の死を悼む知友の名に、当時の哲学(井上哲次郎)、宗教学(姉崎正治)、仏教学者(村上専精・前田慧雲)、国文学者・歌人の佐々木信綱に加え、小山東助、内ヶ崎作三郎、栗原基など第二高校以来のクリスチャンの友人などが名を連ねているところからも、キリスト教、仏教のいずれの信仰に対しても窺い知れる。また神戸一中で雷夢の修身の講義を受けた矢内原忠雄(1893-1961)に影響を与えたという指摘もある。

 残された課題としては、雷夢が父黙雷をどのように見ていたのだろうかという問題である。この点については、雷夢は自分の信仰についても、まとまった文章を残しているわけではないので明確に知る手掛かりもないのであるが、句集『風のゆくへ』に、父への思いを記したと思われる一首が残されている。

 

  ひじりとや鉄のむちとり我さえに

   え行かぬ道に人を強ふとや (句集『風のゆくへ』p. 5

 

 この句には教団レベルの「信教の自由」主張する父のもとに生まれた「宗教二世」からみた父親への思いが込められているのではないだろうか。

 仏教とキリスト教という二つの宗教(宗教家)たちからの「同調圧力」に抗いつつも、「個人の宗教的信仰」を通して精神的自由を求めた雷夢であるが、父黙雷の没後には、クリスチャンの友人である小山東助が「アーメンと呼ぶより、南無阿弥陀仏と唱えることを好いて居った」といい、最終的には父と同じ墓におさまることになる。このような雷夢の生き方をどのように評価すべきであるかは、さらに検討する必要があると思われるが、彼は、澤井義次氏が日本宗教は「<個人の宗教的信仰>と<生活慣習としての宗教>が有機的に重なり合う多元的・重層的な意味構造を構成している」と言われるところにおさまっていったとも言えるのではないだろうか。

 

コメントと全体討議

 以上、那須氏の研究発表の後、宮本要太郎氏がコメントをおこなった。宮本氏はコメントのなかで、まず、若くして亡くなった雷夢が結婚していたのかどうかを那須氏に尋ねた。その問いに対して那須氏は、彼は生涯、独身であったと回答した。また宣教師アニー・S・ブゼル氏の宣教活動について宮本氏が尋ねたところ、ブゼル氏は牧師ではなかったが、英語や聖書を教えるとともに、社会活動もおこなっていたと回答した。さらに宮本氏は雷夢の葬儀がキリスト教式であったのか、それとも真宗式であったのかを尋ねた。その問いに対して那須氏は、その点について詳しく記録されてはいないが、本人は仙台にある父親の墓に入りたいと願っていたし、法名ももっていたことから判断すれば、おそらく真宗式の葬儀がなされたと思われると回答した。

 それらの回答をふまえて、宮本氏は雷夢の葬儀が仏式でおこなわれ、それが本人の希望であったとすれば、澤井氏が言う「個人の宗教的信仰」と「生活慣習としての宗教」が、雷夢のなかで折り合いをつけていたと言えるだろうとコメントした。ただ、那須氏は宮本氏のコメントに対して、葬儀はふつう個人的なものというよりも社会的なものであるので、そのことに雷夢はあまりこだわっていなかったようだと述べた。さらに彼の葬儀については、もう少し掘り下げて研究する必要があるとも那須氏は応答した。

 さらに宮本氏は、現在、「宗教二世」の問題が話題になっているが、今回の事象と共通した構造があるように思われると述べた。親の信仰実践が子どもの意思と関係なく強制され、雷夢が島地黙雷の長男であったことから、彼の受洗が社会的に注目されたと思われる。島地黙雷がキリスト教に対抗心を抱いていたことが、雷夢にとっては、それが親への反抗心、あるいは親から自立するための手段として、親の信仰と違うキリスト教を選んだ可能性もあるように思われると述べた。さらに彼の友人たちからの同調圧力があった可能性もあると宮本氏は述べた。それは横浜バンドや熊本バンドでも同じようなことがあったと思われるとコメントした。最後に宮本氏は、雷夢の生き方が現代と重なる点もあるように思われると述べて、興味深いコメントを終えた。

 その後、澤井義次氏(研究プロジェクト委員長)の司会によって、全体討議がおこなわれた。ここでは、おもな質疑応答を中心として、全体討議を纏めておきたい。まず、白井成允『聞法録』には、島地黙雷が雷夢に送った手紙などが残されていることが指摘された。それらの手紙を読むと、黙雷がキリスト教に批判的であったことがよく分かるし、雷夢が念仏を許容する発言も増えていったことが窺えるとのコメントが提示された。それに対して那須氏は、キリスト教側のデータと仏教側のデータに少し違いが見られるので、もう少し検討する必要があると応答した。

 また雷夢がキリスト教の信仰を素朴なかたちで受け入れて改宗した点は大変興味深いとの感想も出された。さらに雷夢は学校で倫理すなわち「修身」の教科を教えていたと言われるが、その内容はどうであったのかとの問いが提示された。その問いに対して那須氏は、当時の国家神道色の強い「修身」の内容であったのではなく、トルストイや外国文学を教えるなど、かなり自由な内容を教えていたようだと回答した。

 また雷夢は詩に関心があったとのことであるが、宗教的な詩も書いていたのかとの問いが提示された。その問いに対して那須氏は、彼の句集を見ると、必ずしも宗教体験を語るような、宗教的な詩を書いていたわけではないと回答した。ところで那須氏は、雷夢が受洗した後、伝道に関わったことはなかったが、キリスト教的な精神を示す話もしたようだと述べた。また雷夢が育った生活環境に関する問いに対して那須氏は、雷夢が成長したのは東京の家であったが、真宗の寺で育ったのではなく、いわば一般家庭のようなところで育ったと回答した。さらに、那須氏の発表題目の副題、すなわち「宗教的自由と精神的自由のはざまに生きること」がどのような意味であるのかとの問いが出された。その問いに対して那須氏は、宗教的自由とは雷夢が自分の持って生まれた制度的宗教から自由になることを、精神的自由とは宗教の違いにとらわれない心の自由を意味しており、雷夢がそのあいだに生きたことを示唆していると回答した。

 研究会に参加した会員のほとんどが、これまで島地雷夢の存在を知らなかったこともあり、活発な質疑応答がおこなわれた。まさに今年度の最初の研究会に相応しく、充実した内容の全体討議であった。

第2回研究会

日時
2024年5月24日(金)18:00-20:00
場所
オンライン
講師
小田淑子(元関西大学教授)
演題
宗教の自由と宗教の存続
コメンテーター
澤井義次(研究プロジェクト委員長、天理大学名誉教授)

小田氏の研究発表

 小田氏は、以下に提示した配布資料に沿って研究発表をおこなった。そこで本報告では、配布資料をふまえて、本報告を作成させていただく。

 

 

宗教の統合的理解を目指す立場

 宗教学・宗教史の立場は、世界には類型の異なる多くの宗教があることを念頭に置き、歴史上の形態と現象を主に考察するが、私は信仰や神秘体験という超越との交流、教義・宗教思想も含めた不可視の次元にも考慮し、宗教の統合的理解を目指す立場でこの問題を考察する。

 

宗教の自由と宗教の存続

 宗教が共同体を基盤に世代間伝承して存続することは宗教史の事実だが、存続様態はどの宗教研究でも不思議と看過されてきた。ワッハは宗教にとって共同体が不可欠の構成要素だと見抜いたが、(共同体の存在が存続と世代間伝承を自明の事実として前提していたとしても)存続問題には言及していない。宗教の存続とは親が子に自分の宗教を教え伝えることを意味する(この問題は宗教と婚姻の関係、今日話題になった宗教二世の問題に密接に関連し、大きなテーマへの展開が予想される)。子供は母語を覚え社会化する過程で特定の文化や宗教に触れ、身に着ける。それは子供には「自由選択ではなく押し付けられた宗教」であり、宗教には「宗教の自由」に反する伝承という問題を内に含む。(現代日本ではその伝承はなくなったように見えるが、神道と仏教が存続する限り、両者はどこかで継承されている。また、一般に宗教の異なる結婚は子供にどちらの宗教も教えないか、一方の宗教を教えることで他方の伝承ができなくなるなど、伝承システムが作動しなくなる。現代はこういう傾向が強くなっている。)

 この伝承様態が宗教を慣習化・形骸化させると批判されるが、宗教の基本的特質でもあることを否定できない。宗教の主体的信仰は、多くの場合、伝統宗教の内部で、時には他の伝統宗教への改宗の際に生じる。しかしまったく未知の神の声を聞くのは創唱者のみで、これを神の声を受けとめるか否かは大問題となる。

 信教の自由はヨーロッパでの宗教改革以後にキリスト教徒が教会帰属の自由、つまり国家と教会の分離を求めた。それはキリスト教において教会帰属が救済に関わる問題だったからであり、近代国家の成立とともに個人の信教の自由が基本的人権の一つとして確立された。国家と教会の分離はやがてより一般的な政治と宗教の分離に変化したが、この変化の意味は慎重に検討されるべき問題を含む。というのは、イスラームや仏教諸宗派にはキリスト教教会に等しい救済権限をもつ組織はない。キリスト教世界内部でも国家と宗教の分離のあり方には相違があり、まして欧米キリスト教世界それ以外の地域でも宗教の自由は同じだと言えるのか、さらなる検証を必要とするだろう。近代以前から、ユダヤ人のような少数派の民族や宗教の人々は生活するために、居住社会の多数派の言語文化と宗教になじまざるを得なかった。その中でユダヤ教徒は自己の信仰を固持し、現代ではヨーロッパでのムスリム移民たちも自分の宗教を保持し続けている。

 

日本における宗教の自由とその特異性

 最後に、日本における宗教の自由の特異性についても少し言及したい。日本では、仏教伝来当時から仏教に改宗しても、日本的神道共同体を否定した仏教共同体を形成しなかったし、それ以後も日本的共同体に属する限り、仏教諸宗派の帰属が異なっても婚姻は自由だった。これが、寺請制で仏教が家の宗教となる江戸時代以前でも、日本人が宗教の相違をあまり意識せず、信教の自由を深く考えない原因の一つだと思われる(ただし、親鸞や道元の宗教思想を見ると、各自の仏教を深く自覚していたことは明らかだが、どちらも教団を形成したが、独立した宗教共同体ではない。つまり、暮らしの営みと結びつく神道儀礼などが必要とされ、仏教と神道の共存が続いた)。明治時代以後、明治政府は神道非宗教論を根拠に国家神道を国民に強制しつつ、キリスト教に信仰の自由を保証した。その結果キリスト教徒が天皇を神として崇拝礼拝することを拒否する(=日本的宗教共同体の否定)と、非国民とみなした。だが、政府・国家はキリスト教徒に個人の信仰の自由を認めており、信教の自由を犯したとは認めなかった。

 戦後の日本での信仰の自由は主に政治家や自衛隊の靖国参拝問題つまり戦前の国家神道の強制への反対の場面で顕在化する。キリスト教徒と一部の仏教者は個人の信仰を固持するために反対するが、多くの日本人は靖国参拝が国家神道への逆戻りを意味するという理解のもとに、それを非難し拒む。だが、現在は国家神道は具体的な宗教団体ではない。過去の国家神道への逆戻りへの危惧とは、すでに現在にも国家神道の伝統が残存することを鋭く感知するからである。またその拒否は各自の信仰の保持のためでなく、ただそれの否定、離脱であるとすれば、日本人が靖国訴訟で求めている宗教の自由は無宗教への自由の主張である。しかも、無宗教である自由を主張する人々も日常的な生活仏教と地域の祭などの神道儀礼に従っており、宗教学的に無宗教とは言えない。日本的宗教の問題は、多くの日本人が日常生活の中で触れている宗教文化を堂々と無宗教と看做している点にあると私は考えている。宗教の自由の問題も、この問題との関連を視野に入れて考える必要があるだろう。

 最後に宗教二世の問題であるが、私はどの宗教でも宗教二世は存在すると考えている。ただし、親が教える宗教教義が今日の世俗的価値や大多数が暗黙に認めている日本的宗教からかけ離れている場合、一部の子供は親の言う通りに生きるが、一部はそこからの離脱を求める。親への反発は一般的な反抗期にも見られ、実家の寺やキリスト教信仰への反発や離脱も相当数あるだろう。だが、今日カルトに属する宗教二世つまりカルト二世の問題は、諸宗教の存続様態と同じ要素を持ちながら、児童虐待に相当する事態や過度の自由制限といった問題を含む。その子供たちの救済措置や保護などの施設や制度が必要だが、カルトと宗教との線引きは簡単ではないだろう。さまざまな宗教教義は程度の差はあるが、各時代の世俗的価値観や社会通念を否定することも多いからである。多数派とは異なる宗教を信仰する自由を守ることが信教の自由の大事な点であるが、そのことに配慮しながら、カルト問題には厳しく対応することも求められている。

 

コメントと全体討議

 小田氏の研究発表の後、澤井義次氏がコメントをおこなった。澤井氏はまず、小田氏が用いる二つの宗教概念の意味について尋ねた。小田氏は宗教学者ヨアヒム・ワッハの概念「共同体」(community)を援用して「日本的共同体」の語を用いたが、その語は「日本社会」という語とどのように意味が異なるのか。また日本宗教の「世俗化」を言う場合、それはどういう現象を意味するのかと尋ねた。その問いに対して小田氏は、ワッハが「宗教共同体」(religious community)と言う場合、それは「教会」(church)や「制度」(institution)の概念よりも広い概念であり、「社会」は宗教より政治や社会制度に焦点がある概念であると回答した。ただし、現代日本の場合、「共同体」と「社会」は実質的に重なり合っているとも付言した。さらに小田氏は、「世俗化」について、キリスト教を背景とする従来の議論は、私たち日本人には違和感がある。日本社会では、宗教的なものが社会全体に浸み込んでいるので、聖と俗を明確に区分できない。「世俗化」については、日本の学界では、明解な見解が提示されていないと回答した。

 そのうえで澤井氏は、小田氏の研究発表の内容について、若干のコメントをおこなった。まず、小田氏が提示する「宗教の存続」という視点から、日本宗教を理解しようとする研究はこれまでほとんどなかった。そうした点で、いわば従来の宗教学が見落としてきた問題点の提起だと思われるとコメントした。また、宗教を統合的に理解するために、小田氏が宗教の思想ばかりでなく、生活レベルでの信仰の継承にも注目すべきことを強調したことも、宗教学的にきわめて重要なポイントであると述べた。さらにもう一点、これまで私たちが「宗教の自由」を論じるとき、近代に生じた普遍的な権利と要求だと捉えていたが、宗教改革後のキリスト教徒は、宗教の自由を自分の救済に関わる深刻な問題として捉えたように、私たち日本人がこの問題を自覚したことはなかったように思うと述べ、宗教の自由の問題を捉え直す必要性に言及した。この点については、今年3月の公開講演会において、鎌田繁氏がイスラームには、西洋で言うような「自由」はないと述べたように、私たちは「宗教の自由」のあり方を再考すべきだろうともコメントした。

 その後、澤井氏の司会によって全体討議がおこなわれた。まず、研究発表のタイトルにある「宗教の自由」という言葉について、それは「信教の自由」とか「信仰の自由」という意味なのかという確認の問いが提示された。それに対して小田氏は、そういう表現のほうが適切であるが、本学会の研究テーマでも「宗教の自由」という表現を用いているので、あえてその表現を使用したと回答した。また、「宗教の存続」という視点からは、仏教は仏法僧を三宝と重視し、僧とは共同体のことである。したがって、仏教では当初から、仏教の存続を視野に入れていたと思われるとのコメントが提示された。さらに、コロナ禍以後、葬送儀礼として、家族葬がますます多くなっており、無宗教葬も増加しつつある。現代社会では、宗教の存続がますます難しくなっていることが、全体討議のなかで確認された。

 戦前、日本のキリスト教徒の中でも、特に純粋に信仰に生きようとする宗教的少数者が弾圧を受けてきた。今日、そのことの反省が必要であるとの意見があった。また小田氏は、研究発表のなかで、カルトと宗教の切り分けの難しさに言及したが、一方で、澤井氏が言う「生活慣習としての宗教」と「個人的信仰としての宗教」は、無宗教の視点からは切り分けられやすい。また「無宗教」には何らかの宗教性があると思われるとのコメントが提示された。

 さらにこれまで信仰の継承については、社会学や民俗学などの研究が見られるが、小田氏がどうして「宗教の存続」の語を用いたのかとの問いが提示された。その問いに対して小田氏は、民衆を基盤とした全体的な統合によって、宗教共同体が存続していくという、宗教の全体性を捉えたいと思って、あえて「信仰の存続」と言わずに「宗教の存続」と表現したと回答した。そのうえで小田氏は、歴史的にとらえると、宗教が存続するなかで、個人的な信仰の継承も矛盾なく継承されてきたと言えるのではないかと述べた。

 以上のように、現代日本社会において、取り扱うことが難しいテーマについて、充実した内容の研究発表に続いて、活発な全体討議がおこなわれた。

第3回研究会

日時
2024年6月28日(金) 18:00-20:00
場所
オンライン
講師
山根秀介氏(舞鶴工業高等専門学校准教授)
演題
ジェイムズのプラグマティズムと宗教の自由
コメンテーター
氣多雅子氏(京都大学名誉教授)

第4回研究会

日時
2024年7月19日(金)
場所
オンライン
講師
深谷耕治氏
演題
W・R・ラフルーアの和辻論
コメンテーター
芦名定道氏(関西学院大学教授)